会津新藤五(あいづしんとうご)

  • 指定:国宝
  • 短刀 銘 国光 (名物:会津新藤五)
  • 長さ 8寸4分(25.45cm)
  • 反り 内反り

 

 

会津新藤五は相州の新藤五国光作の短刀で「享保名物帳」に所載する。「享保名物帳」には、はじめは会津城主:蒲生氏郷の所持で、その子秀行に伝わる。秀行が家臣の出頭人:森川半弥に与えたものを、森川勘解由の取り次ぎで金沢城主:前田利常に金百枚で売った、とあるが、「享保名物帳」の底本になった「名物控」には、もと本阿弥光栄が所持していたものを、蒲生忠郷に売った。忠郷が寛永4年(1627)早世のとき、かねて寵愛していた小姓の森川半弥に、これで供せよ、と言って新藤五国光の短刀を与えた。しかし、すでに幕府から殉死の禁令が出ていたからであろう、半弥は追い腹を切れなかった。
忠郷には嗣子がなく、領地召し上げになった。半弥も浪人となったので、形見の短刀を前田利常に金百枚で売った。それで同家より明暦3年(1657)・延宝8年(1680)の両度、本阿弥に鑑定にきたので、あとのとき百三十枚の折紙を出した、とある。元禄15年(1702)4月26日、将軍綱吉が前田綱紀邸に臨んだとき、綱紀より備前長光の太刀・郷義弘の刀とともに、会津新藤五の短刀を献上した。
会津新藤五の折紙が二百枚になった時期は、前田家の「御太刀并千貫以上之御刀脇刺」に、すでに「弐百枚折紙」とあるから、おそらく将軍へ献上のさい、極め直したものであろう。宝永4年(1707)7月18日、将軍綱吉は世子家宣の子:家千代の誕生七夜を祝して、この短刀を授けた。家千代はその翌々月28日に夭折し、法名を智幻院という。現在の鞘書にも「智幻院様御之内」とある。会津新藤五は昭和8年、徳川家正氏名義で国宝指定、戦後、同家を出た。

名物帳には「御物 会津新藤五 銘有 長さ八寸四分半 代金弐百枚 蒲生飛騨守氏郷卿之所持。下野守殿迄伝る。出頭人森川半弥と申者に被下、同苗勘解由取次にて利常卿金百枚に御求(め)、加賀守殿宅へ元禄十五年四月 綱吉公御成之刻右之脇差と義弘参百枚の刀上る。島津正宗御刀并(に)吉光参百五拾枚御脇指拝領、若狭守殿へは貞宗参千五百貫の御刀拝領也。若狭守殿よりは長左文字野之刀三千貫上る。」

形状は、平造、三つ棟、重ねやや厚く、内反り。鍛えは、板目に杢交じり、総体によく錬れてつみ、僅かに流れ肌まじり、地沸を厚く敷き、地景を頻りに入り、沸映り立ち、冴える。刃文は、焼出しの部分は細く、上は次第に刃幅を増し、概して中直刃、下半は匂深く、上半はやや締まりごころ、小沸よくつき輝き、金筋入り、指表の区際に小さな焼込みを見せ、匂口明るく冴える。帽子は小丸、返り深く、先僅かに掃きかけ、帽子の下の辺に沸のこぼれ込むところが見られる。茎は生ぶ、先栗尻、鑢目極く浅い勝手下がり、目釘孔一。
相州鎌倉鍛冶の草分け的存在は粟田口国綱、備前の国宗・助真らがあるが、銘文に居住地を明記し、年紀もあって生えぬきの相模刀工の祖と称すべきは新藤五国光で、最古の年紀に「永仁元年十月三日」があり、これには「鎌倉住人新藤五国光作」と長銘がある。古伝書には国光の子に国重・国広・国泰の三人がおり、彼らも後に国光と銘を打つと記している。国光の作風は一見粟田口物をおもわせるものがあるが、熟覧すれば地刃に表された著しい地景・金筋がこの工と指摘される。刃文は直刃を得意とし、糸・細・中・広直刃など多様であり、短刀の名人として藤四郎吉光とともに並び称されている。

蒲生氏郷は、蒲生賢秀の子で、父:賢秀が織田信長に臣従する際、人質となった。器量に優れた氏郷は信長に気に入られ、娘を娶り一門に列せられた。氏郷父子はこれに感謝し、本能寺の変の際には、安土城にいた信長の妻子を自領:近江日野郷にかくまっている。秀吉の天下となったのち、信長の娘婿である氏郷は、豊臣政権でも一目置かれていた。茶道では利休七哲の一人にも数えられるほど優れ、またキリスト教の洗礼を受けるなど、文化人としての声望も高かった。小田原の陣後、奥州を支配下におさめた秀吉は、氏郷に伊勢から会津九十二万石への転封を命じる。氏郷は徳川家康・毛利輝元に次ぐ石高を有する大大名となった。この転封は伊達政宗を牽制するためのものだが、秀吉が氏郷を警戒し、中央から遠ざけるためとの評も立った。だが氏郷の会津における治政は、後世の会津人にも慕われるほど優れていた。当時、黒川と呼ばれていた地名を若松と改め、居城を鶴ヶ城と命名したのも氏郷である。長寿であれば名君として後世に名を残せただけに、早世したことが惜しまれた。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 8寸4分(25.45cm)
反り 内反り
元幅 7分6厘(2.3cm)
元重ね 2分弱(0.6cm)
茎長さ 3寸5分8厘(10.85cm)
茎反り なし