不動行光(ふどうゆきみつ)

  • 短刀 銘 行光 (名物:不動)
  • 長さ 8寸4分(25.5cm)
  • 反り なし

 

不動行光は相州行光作の短刀で「享保名物帳」の原本にはなく、本阿弥長根が幕末になって追加したもの。豊前小倉藩主:小笠原家伝来で、由緒は不詳。不動行光の絵図は「光山押形」に出ているが、「享保名物帳」には、単に「不動」とだけあって、刀工名は書いてない。「不動」が果たして行光かどうか、疑問なので、今村長賀が明治34年5月28日拝見したのち、本阿弥長識に照会したところ、「不動」の作者は相州貞宗、と回答してきたという。すると、現存の不動行光は、「名物帳」にいう「不動」ではないことになる。
伝来については、小笠原貞慶が天正3年(1575)、長篠の役の功により、織田信長より拝領、という伝承があるが、貞慶がこれに参戦した、という事実はない。不動行光が焼け身の焼き直し物であることについても、森蘭丸が信長から拝領していて、本能寺の変で焼けたともいう。すると、小笠原貞慶が拝領したことが否定されるし、では、その焼け身がどうして、小笠原家に伝来しているのか、それも疑問になってくる。こうした疑惑は、不動行光と不動貞宗の混同から生じたものという。

「名物帳」には、小笠原右近将監殿 不動 長さ 代金 百枚 由緒不詳。
「光山押形」には、明治三十四年五月廿八日 伯爵小笠原家にて拝見 光賀 此押形より刃細し。
「註釈刀剣名物帳」には、小笠原左近将監殿(小倉小笠原伯爵家)
不動行光 長 代金百枚
小笠原左近将監は右近将監の誤り、この人初め忠政と云ふ兵部大輔秀政の子なり母は台徳公秀忠の女、父大阪に於て戦死し兄もまた病死したるを以て継ぐ、寛永九年豊前小倉十五萬石を領し九州探題の命を蒙る、今の小倉小笠原はこの家なり。不動行光は不動の彫物あるに依ての名なるべし、其刀の由来分らず。

形状は、平造、三ツ棟、身幅やや狭めに、無反りとなる。鍛えは、板目肌、地沸つき、地景入る。刃文は、直刃調に沸つき、匂口ばさける。帽子は、丸く、先掃かける。彫物は、表は樋の中に梵字、蓮華、不動、矜伽羅、制多伽の浮彫があり、裏は腰樋。茎は、生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下り、目釘孔一、指表目釘孔の下に二字銘がある。
享保二年、代金子百枚、本阿弥光忠の折紙と江戸時代の黒塗刻鞘小さ刀拵が附属している。

「鑑刀日々抄続」 本間薫山先生著
七月二十四日(昭和五十一年)
短刀 銘 行光
刃長八・九寸、孔一ケ。この短刀は私が若かりし頃に小笠原元伯爵家で初見、その後たびたび押型を掲載しているのであるが、銘の標本としているのではないことを念のためにことわっておく。生れは正真であったとおもわれるが火災にあって銘がただれた。それを下手にほりかえし、行の字の三画く目のハネのごときは元来なかったものを加えて異様な銘振となっている。鍛が板目、地景よく入るが、それがどぎつくちぢれた感があり、地沸がつよいがうわずっているのは再刃のためである。細直刃がまずはよく出来ているが、くずれている。浮彫の梵字・蓮台・立不動・二童子のポーズ肉置は経眼した刀身彫刻の中で類がないほどに優れているので、これこそ大進房の彫であろうとおもわれてならないが、惜しいことに火をかぶったためであろう、すこしくただれた感がある。
ともかくも生れは名短刀であり、古来織田信長自慢のものと伝えていることが首肯される。但し現存する刻鞘の拵は江戸後期の作であろう。現状でもこの身はすこぶる貴重であり、大切に保存すべきである。
(月山貞利に模写させるために、現所蔵者より借用したものを熟鑑する。)

彫物のある行光はすべて短刀であり、数は僅かなものとなる。見事な彫りを見ることができる御物の短刀、及び不動行光も共に大進房の手になるものといわれている。大進房祐慶は新藤五国光の子、あるいは弟子、元亀本一説によると、国光の子国泰の法名といわれ、いずれにせよ彫の名手である点では一致している。「出羽国歯黒(出羽国羽黒)の山伏なり」あるいは日光山法師ともいわれている。また、「室町時代以来の諸本にある如く行光、正宗の作刀のある彫物の中に大進房の作があり、彼以後の相州物の彫物にその作風が流れている」大進房の手になるといわれているものを列挙すると、陸奥新藤五、不動行光、倶利伽羅正宗、包丁正宗(徳川黎明会)、包丁正宗(岡野勝野氏)、御物行光、などである。
不動行光の彫物については、梵字が相州物では唯一となる阿弥陀如来種子(キリーク)であること、不動明王像が立像である点など、相州刀工の信仰が新藤五以来真言密教系修験の象徴に終始していることから見ると、信仰上やや異質といわれている。不動明王の下には、矜伽羅童子(こんがらどうじ)と制多伽童子(せいたかどうじ)の二童子が彫られている。二童子とは、八大童子と呼ばれる不動明王に従う眷属で、実際には、八大童子のうちの二童子を不動明王の両脇に従えた三尊形式が多い。

豊前小倉藩小笠原家は、寛永9年(1632)、播磨明石より小笠原忠真が十五万石で入封し、以後幕末まで小笠原氏が在封した。幕末、小倉領内は関門海峡に接し、北面に遠く朝鮮半島をのぞむ要衝の地だけに、海岸の軍備を強化した。文久3年(1863)砲台をもうけ、寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲鋳造がはじめられた。農兵が徴発され、鉄砲が装備された。そして小倉藩の危機ともいえる第二次長州征伐が慶応2年(1866)勃発した。藩主小笠原家の同族唐津小笠原家の世子で老中をつとめる壱岐守長行が、長州征伐の総督として小倉に進駐してきた。長州は当時、尊攘派政権をとり、高杉晋作の奇兵隊はじめ諸隊が幕軍を破り、破竹の勢いであった。小倉藩の危機が迫った。九代藩主忠幹は、前年9月死去しているが、厳秘に付されていた。7月、小倉城で戦評定が開かれ、すでに死去した忠幹の名で「城を枕に討死-」の布令が出された。しかし幕府の総督小笠原長行がひそかに脱出して幕軍は解散し、応援の熊本藩兵も引き揚げる。もはや藩単独の戦いは無理だった。こうして小倉藩は、城を焼き、南方の山岳地帯香春町(福岡県香春町)へ落ちのび、ここに藩庁をもうけた。忠幹未亡人、4歳の嗣子豊千代丸(忠忱)は熊本の細川家をたより、家臣・家族三万人が香春へ移動した。進駐してきた長州軍との和睦がよくやく成立したのは、翌3年1月であった。香春に藩庁を開いた藩は、財政が極端に窮迫し、藩士の給与は、禄高に関係なく、一人一日米五合の面扶持制をとったという。戊辰戦争には、新政府の命令にしたが、奥羽へも出兵した。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 8寸4分(25.5cm)
反り なし
元幅 7分強(2.1cm)
茎長さ 3寸2分3厘(9.8cm)
茎反り 僅か