蜂須賀虎徹(はちすかこてつ)

  • 刀 銘 長曽弥興里入道虎徹 (金象嵌)寛文五年乙巳霜月十一日 弐ツ胴截断 山野加右衛門永久(花押)(号:蜂須賀虎徹)
  • 長さ 2尺2寸8分(69.1cm)
  • 反り 3分(0.9cm)

 

蜂須賀虎徹は阿波国徳島藩蜂須賀家に伝来した長曽弥虎徹興里作の刀である。庵棟、表裏に丸止めの棒樋をかく。地鉄は板目肌、柾心あり肌立つ。刃文は湾れ心あって、互の目足入り砂流し気味となる。鋩子は小丸に掃きかけ心があり、わずかに返る。中心はうぶ。鑢目は勝手下がり。本刀は阿波藩主:蜂須賀家伝来につき「蜂須賀虎徹」と命名され「昭和名物」に指定された。(昭和46年2月16日審査)

形状は、鎬造、庵棟、反り浅く、中鋒となる。鍛えは、小板目肌よくつみ、処々流れて、地沸よくつく。刃文は、直刃調の互の目乱れ、小のたれ交じり、沸ついて砂流しかかる。帽子は、直ぐに小丸に返り、先掃きかける。彫物は、表裏に棒樋丸止め。茎は、生ぶ、作栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔一。指表、目釘孔の下に、「いおき入道ハコトラ九字」銘があり、裏に金象嵌の截断銘がある。佐藤寒山先生は「年代を寛文5年の始め頃、のたれ調に僅かに互の目の出来で、匂口は比較的に深い」と評されている。

名物とは、古剣書の名物、古くは広く有名な刀、名の聞こえた刀を名物と呼んだ。現在、名物といえば「享保名物帳」に所載される刀剣を指すのが一般的である。「享保名物帳」とは本阿弥家より享保年間に幕府に提出した名物の解説書である。八代将軍:徳川吉宗の命により、享保4年(1719)11月、本阿弥三郎兵衛つまり宗家の光忠(14代)が、本阿弥家の名物扣や留帳などから整理して幕府へ提出した。その控えは銘刀伝家日記と題されている。そのほか大名家などで独自に、名物と呼んでいるものがあるが、これは「御家名物」といわれており、上杉家・伊達家・前田家などに多い。

江戸時代の「享保名物帳」を倣った「昭和名物帳」は、昭和41年より刀苑社で審査が開始された。「昭和名物帳」の審査員には主として刀苑社の村上孝介先生(号:剣掃)をはじめ、福永酔剣・辻本直男の両先生、そして、銀座刀剣柴田の柴田光男先生を加えた4人が中心として審査が行われた。「昭和名物帳」では、選定の基準を各刀工の作品中、傑作と思われるものを指定することになった。したがって、たとえ一流刀工ではない刀工の作品でも、出来が優れていれば「昭和名物」に指定されるので好評を博した。「昭和名物」の命名については、刀剣にまつわる由緒や所有者の事歴などが勘案された。

蜂須賀家の蔵品入札は、昭和8年10月、東京美術倶楽部で行われた。入札道具には国宝が、書画に2点、刀剣に2振あり、刀剣は計11振出品されたが、そのなかに蜂須賀虎徹は無かった。国宝の2振は、唐隋吉家と号のある備前吉家の太刀と、備前正恒の太刀だった。他に備前守友、備前友成、備前長光、豊後行平、備前一文字、一文字吉平、大和包永、備前景光、越中則重と全て古刀の太刀であった。

蜂須賀家が徳島に入封したのは、天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国征伐の直後、播磨国龍野城主蜂須賀家政が阿波国徳島十七万五千石に封ぜられた。慶長5年(1600)関ヶ原役で家政は、豊臣恩顧大名として苦慮し、いったん阿波の領土を豊臣秀頼に返上し、自身は蓬庵と号して出家し高野山に入った。表面中立的立ち場をとるが、嫡男:至鎮に兵をつけ東軍に参加させたのだった。ちなみに至鎮は、徳川家康の養女(小笠原秀政の娘)を夫人としていた。関ヶ原役後、あらためて阿波が蜂須賀家にあたえられるが、元和元年(1615)の大坂ノ陣において、至鎮が功をあらわし、淡路(兵庫県)八万一千石を加増され、二十五万七千石の大封となった。蜂須賀家は、小六と称した家祖:正勝(家政の父)のとき、運をひらいた。最初美濃(岐阜県)の梟雄として名高い斎藤道三につかえた。その後小六は、織田信長家中の木下藤吉郎とめぐりあい、藤吉郎が羽柴と名を変え、豊臣秀吉と大きく成長する上昇運に乗って大名にのし上がったのだった。幕末、幕府との協調を唱える十三代斉裕と勤王討幕の世子茂韶が対立した。しかし斉裕が死去し、茂韶が十四代藩主につき、藩は新政府側の旗幟を鮮明にした。戊辰戦争にさいし、奥羽征討に出兵した。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

(法量)
長さ 2尺2寸8分(69.1cm)
反り 3分(0.9cm)
元幅 3分(0.9cm)
先幅 1寸4厘(3.15cm)
鋒長さ 1寸1分2厘(3.4cm)
茎長さ 6寸6分(19.9cm)
茎反り 僅か

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