髭切(ひげきり)

  • 指定:重要文化財
  • 太刀 銘 国綱 (名物:髭切・鬼切)
  • 北野天満宮蔵
  • 長さ 2尺7寸8分5厘(84.4cm)
  • 反り 1寸2分厘(3.6cm)

 

髭切は源氏の重宝であった太刀の異名で、髭切・髭切丸ともいい、由来については二説ある。
「平治物語」の説では、源義家が奥州の安倍氏討伐のとき、捕虜10人の首を斬った。いずれもくち髭もろとも切り落としたので、髭切というの異名がついた。平治元年(1160)、平治の乱において平家に敗れた源頼朝は、少ない供のみを連れて東国へ落ちてのびていく途中、髭切を美濃国の青墓の長者:大炊という者に預けておいた。やがて関ヶ原で捕らえられ、髭切のことを尋問されると、大炊のものとに預けてあると答えた。
難波経家が大炊のもとに行くと、大炊は泉水の太刀と中身をすり替えて、経家に渡した。京都に持ち帰り頼朝に見せると、髭切に相違ない、と偽証した。平清盛は大いに喜び秘蔵していたが、やがて朝廷に献上した。その後、真の髭切は大炊から朝廷に献上したという。しかし、頼朝が関ヶ原で捕われた時、佩いていたので、さっそく取り上げた、という異説や、頼朝が建久元年(1190)入京した時、後白河法皇より拝領した、という異説もある。
「剣巻」の説では、多田満仲が日本の鍛冶に造らせてみたが、思いに叶うような刀を得られなかった。筑前国三笠郡土山にきていた異国の鍛冶を、京都に呼んで造らせた。それが八幡大菩薩に祈り、60日かけて打った二振りのうち、在任を試してみて、一刀はあご髭もろとも切り落としたので「髭切」、もう一刀は膝まで切り落としたので「膝丸」と命名した。満仲の嫡子:源頼光の家来で、四天王の随一といわれた渡辺綱が、これで鬼の手をきりおとしたので、「鬼丸」と改名した。
頼光はこれを三男:頼基に与えていたが、頼光の甥にあたる源頼義が、奥州の安倍氏討伐に赴く時、朝廷で頼基より召しあげ、頼義に賜った。頼義より義家ー為義と伝わった鬼丸は、夜になると獅子の吼えるような音を出すので、「獅子の子」と改名された。膝丸は為義の婿になった熊野の別当:教真に贈られた。為義はその代わりに、播磨鍛冶に寸分違わぬものを作らせ、柄に小烏の目貫を入れ、「小烏」と命名した。
二刀を抜いて障子に立てかけておいたところ、人も触らないのに倒れてしまった。見ると小烏が今まで2分(約0.6cm)ほど長かったのに、同じ長さになっていた。中心を脱いてみると、中心先が2分ほど切り取られていた。これは獅子の子の仕業に違いないと言うので、獅子の子を「友切」と改名した。為義から義朝に譲られ、義朝は平治の乱の時、三男の頼朝に佩かせていた。
戦い敗れて東国へ落ちる途中、八幡大菩薩より友切という名が悪い、という示現があったので、もとの髭切という名に戻した。父と別れた頼朝は、自分は斬られても髭切だけは平家の手に渡したくない、というので、江州草野の庄司に頼み、熱田神宮に奉納した。成人した頼朝は治承4年(1180)、平家討伐の軍をおこすと、さっそく熱田神宮から髭切を返してもらったという。しかし、以上の記述は後人の創作であって、実説でないことは明白である。
髭切の作者についても、上述の異国鍛冶や泉水のほかに、異説が多い。文寿・元寿・行重・実次・諷誦など、奥州鍛冶が圧倒的に多い。そのほかは、美濃国の外藤、備前国の四郎兵衛尉、筑前国の正応などの名も数多く挙げられている。なお、元寿は漢国の鍛冶とか、筑前国土山にいた鍛冶は実次とかいう異説もある。さらに文寿が髭切の太刀を打ったと伝えられる所は、出羽国置民郡小越村小菅(山形県米沢市上小菅)の誕生川の所、とする説さえある。誕生川はもと太刀打ち川と呼ばれ、落合に源を発する、その支流が、京塚において県道と交差する。そこの橋を多切橋という。そこに明治34年、文寿の碑を建てた。
青墓の長者は泉水の太刀と取り替えて、髭切を平家に渡した、とする説のほかに、外藤に模作させたものを渡した、とする古剣書の説がある。しかし、難波経家が受け取りに来たのが真実ならば、経家の兄である経遠と経房は、ともに刀を作ったとされている。すると、経家も刀剣には明るかったはずである。古い髭切と、今出来の外藤との区別がつかなかったはずはない。古剣書に、建久元年(1190)、源頼朝が京に上る途中、その途上の美濃において外藤に刀を打たせた、という説がある。髭切の模作説は、この頼朝の注文打ちと混同したものと見るべきである。
髭切は刃長2尺7寸(約81.8cm)、と「剣巻」にあるが、それは信じ難い。外装は柄・鞘とも円作り、つまり黄金作りだったとあるのは、信じてよかろう。
曽我兄弟の仇討ちの時、源頼朝は騒ぎを聞きつけ、髭切を抜いて出ようとしたところ、一法帥丸に止められたという。その後の伝来については諸説がある。頼朝のあと、安達泰盛の手に渡り、泰盛が弘安8年(1285)、北条貞時に殺された時、髭切も火に巻かれて焼け身になった。貞時はそれを行次に焼き直させたが、将軍のたっての願いにより鎌倉の法華堂に納めたとされている。
これに対して、頼朝と義兄弟にあたる足利義氏に、伝えられたという説もある。義氏はこれを次男の泰氏に譲った。泰氏は三河国吉良庄西尾に居城していた。城内の八幡宮に髭切を奉納したので、剣八幡宮と呼ばれていた。ただし、奉納したのは義氏という異説もある。泰氏の兄:長氏の子孫にあたる今川了俊が、建徳2年(1371)、鎮西探題になり九州に下向する時、髭切の目貫を申しうけて、それ以後、同家の家宝になった。髭切は盗難にあい、現在、剣八幡宮にはない。
しかし、足利将軍家に伝来したという説もある。足利義教が嘉吉元年(1441)3月23日、伊勢神宮へ参拝した際、袋に入れて携行していた。折悪しく大雨落雷があったので、髭切の太刀を持ち帰るのを忘れていったという。すると、剣八幡宮から申し請けたことになるから、同社にないのは当然である。足利将軍家における髭切について、その後の消息はまったく不明である。
他に保科家の業物の異名に髭切がある。天文14年(1545)、信州高遠城主:仁科氏は、武田信玄に降伏したが、信州佐久郡志賀(長野県佐久市志賀)の領主:志賀平六左衛門は降伏しないので、信玄は志賀に軍を進めた。しかし、戦わずして勝つことを考え、仁科家の家老:保科筑前守正俊が、平六左衛門と多少の面識のあるのを利用して、平六左衛門の殺害を命じた。
筑前守は志賀の町に入り、角屋の蔀の陰に隠れ、平六左衛門の来るのを待っていた。平六左衛門が部下を指揮するため、馬に乗ってやって来た。筑前守の家来:北原彦右衛門が踊り出て、薙刀で馬の腹を突いた。馬から平六左衛門がとび下りたところを、筑前守が兜の錣めがけて斬りつけた。錣から首、さらに平六左衛門が自慢の髭まで切り落とした。
それを信玄に報告すると、その太刀を髭切と命名してくれた。献上致します、と言うと、その方の重代にせよ、といった。刀は基重の作、とあるが、長船元重の誤りであろう。筑前守に大宮盛景を与えて賞するとともに、信玄の直臣にとり立てた。武田家滅亡後は徳川家康に仕え、明治まで上総国周准郡飯野(千葉県君津市飯野)、二万石の領主だった。

鬼切はその刃で鬼を切ったという古名剣の異名で、ただし、その作者や所持者については異説が多い。
伯耆安綱説は、源頼光が鬼を切った安綱の太刀とする説は、古剣書のうちでも室町初期以前のものに見られる。古剣書には単に「鬼」とあるだけで、具体的な記述を欠くが、「太平記」には詳記されている。もと坂上田村麿が伊勢神宮に奉納したものを、源頼光がもらい受け、さらにそれを渡辺綱に与えたという。綱はこれで妖怪のこと母を退治した。酒呑童子討伐のときの刀も、これだったともいう。しかし、頼光自身が鬼を斬ったとする異説もある。その後、多田満仲がこれで信州戸隠山の鬼を切ったので、「鬼切」という刀号がついた。
「太平記」をみると、新田義貞は討死のまえ、これを日吉神社に奉納したことになっているにもかかわらず、討死のときもこれを佩用したことになっている。すると、「梅松論」にあるとおり、鎧を奉納した、とする方が正しい。義貞が討死にすると、寄せ手の大将:足利高経がこれを分捕った。足利尊氏から提出命令がきたのに、焼失した、と虚偽の報告をした。尊氏は怒って義貞撃滅という大功をたてたにもかかわらず、恩賞を与えなかった。それがのち高経が尊氏に叛く一因ともなった。
大原実盛説は、伯耆の鉄山に伝わった伝説では、大原実盛が同国日野郡俣野の鉄で作ったものという。実盛は真守の誤記である。
大和行平説は、渡辺綱が京の一条戻り橋、または村雲の橋においてその太刀で鬼を切った、という。ただし場所を明示しないものもある。
河内有国説は、これも渡辺綱が切ったというだけで、場所の記述はない。
舞草雄安説は、源義家が奥州征伐のさい、院宣をうけて雄安に作らせたもので、のち足利氏の先祖:義国が相伝した、という。しかし、「鬼切」と命名の由来は記されていない。
奥州真国説は、「鬼切」を平家の重宝としているが、源氏の誤りでなければならぬ。
奥州武里説は、宮城郡住人竹里の作というだけで、所持者など不明。
奥州幡房説は、幡房を雄安同人とする説によったもの。
奥州実次説は、「鬼切」を髭切・膝丸・薄緑と同一物とし、実次の作とするもの。これは「平家物語」剣巻に拠ったものであろう。
備前正恒説は、鬼切丸とよんでいるが、由来は不明。
筑後利延説は、源頼光が酒呑童子を斬った太刀、という。
粟田口国綱説は、遠藤左衛門所持というほか不明。
相州正宗説は、大内義長が自害のときに、大内家であった重代のこの刀でもって、杉民部大輔が介錯したという。
以上の諸説のうち、伯耆安綱作で、源頼光所持という説は、享保名物の「童子切」を指しているようである。しかし多田満仲を祀った兵庫県川西市の多田権現に、昔から「鬼切丸」という神宝が伝わっていた。すると、「童子切」ではないことになる。なお、寛永3年(1626)11月13日、後水尾天皇に第一皇子が出生されたので、将軍家光は翌月4月、誕生祝いに「鬼切丸」を献上している。しかし、それは本阿弥家に預けてあった「鬼丸」の誤りである。
出羽の豪族:最上家にも、「鬼切丸」と称する太刀が伝来していた。最上家は出羽の豪族だったが、江戸期になると五千石の旗本に衰微していた。同家が明治2年、新政府に提出した調書によれば、多田満仲から源頼光に、さらにその正嫡:頼国に伝来していたものを、源義家が蝦夷征伐に赴くとき借りてゆき、そのまま返されずに義家の子孫に伝わった。一時、箱根権現に奉納されていたこともあったが、それを源頼朝がもらい下げた。そして後、最上家に伝来していたものという。
享保17年(1732)11月、将軍吉宗の命で上覧に供した。それ以後は、当主が旅に出ると駕籠のまえに立てられた立て札には「鬼切太刀」と書き、刀櫃にいれ担いで行った。ただし中身は万一の事故を慮って、本物とは別に模造された代剣になっていた。本物はその知行地である、つまり今の滋賀県八日市市大森にある八幡宮に預けてあった。明治2年12月には明治天皇の叡覧も賜った。
そのとき本阿弥光品は、茎に刻された銘は「国綱」と読めるが、伝来どおり伯耆国の「安綱」だ、と鑑定した。その後、最上家をでて転々としていたので、明治13年、当時の滋賀県権令:籠手田安定の首唱で、多くの寄付を募って鬼切を購入し、京都の北野神社に奉納した。昭和2年国宝認定。刃長2尺7寸9分2厘(84.6cm)。銘は「安綱」とあったものに、「安」の両側に縦線を加え、「国綱」に改竄している。
鹿児島の島津元公爵家にも、「鬼切」と号する伯耆安綱の太刀があった。刃長2尺4寸8分(約75.2cm)。現在は重要文化財。
肥後国阿蘇郡小国郷(熊本県阿蘇郡小国町)の豪族:北里家伝来の鬼切丸は「安綱」と二字在銘。長女はそれのお守りで、次の代の長女が生まれるまで、嫁に行けない掟だった。現在は、鎺上、3寸(約9.1cm)ほどのところから折られ、先は1尺8寸7分(約56.7cm)の脇差になっている。折った理由については、豊臣秀吉が島津征伐のさい、石田三成を使者にして提出を求めてきた。北里三河入道は鎌倉時代の源頼光より伝来の大切な宝刀を、もともとは尾張の草履取り上がりであった秀吉ごときに渡せないと、刀を叩き折ったとも、朝鮮出陣か島原の乱のさい、脇差にするため磨り上げた、ともいう。後説が正しいはずである。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺7寸8分5厘(84.4cm)
反り 1寸2分厘(3.6cm)
元幅 1寸1分2厘(3.4cm)
先幅 6分6厘(2.0cm)
元重ね 2分3厘(0.7cm)
先重ね 1分9厘(0.58cm)
鋒長さ 8分9厘(2.7cm)
茎長さ 8寸6厘(24.5cm)
全長 3尺5寸8分(108.4cm)

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