蛍丸(ほたるまる)

  • 太刀 銘 来国俊 永仁五年三月一日 (号:蛍丸)
  • 長さ 3尺3寸4分5厘(101.35cm)

 

蛍丸は来国俊作の太刀で阿蘇惟澄が所持したという。延元元年(1336)3月2日、筑前の多々良浜の合戦において、肥後の阿蘇神社の神職で、菊池武敏の軍に従った阿蘇惟澄は、蛍丸の太刀を揮って奮戦した。太刀は鋸のように刃こぼれしてしまったが、その夜、欠けた刃が飛んできて、もとの場所に納まった。その飛んで来るのが、蛍のようだったので、蛍丸と名づけられた。以後、連枝と阿蘇家に伝来した。昭和6年、国宝の指定をうけたが、戦後、占領軍の武器接収以後は行方不明になってしまった。「光山押形」に所載する。

来国行の子と伝える国俊については、所謂、二字国俊と来国俊が別人か否か、未だに確たる定説はない。二字国俊と来国俊の製作年紀を合わせると弘安元年から元亨元年に及び、この間約40年、一人の刀工の作刀期間として考えた場合に決して無理はない。しかし、両者の作風にはかなりそういがみられ、豪壮な体配に賑やかな丁子主調の乱れを得意とする二字国俊に対し、来国俊は尋常もしくは細身の体配に、上品な直刃調の刃文を見せるものが多い。

蛍丸は刃長3尺3寸4分5厘(約101.35cm)、もと身幅1寸3分(約3.9cm)、重ね3分9厘(約1.2cm)という豪刀で、表裏に棒樋と連れ樋を掻く。佩き表に2寸1分(約6.36cm)の護摩箸をかき、その上に「八幡大菩薩」の文字、佩き裏には6寸8分(約20.6cm)の素剣、その上に梵字を彫る。地鉄は肌つまり、地沸白くつく。刃文は直刃丁子乱れ、匂い沈む。中心はうぶで、佩き表に「来国俊」、裏に「永仁五年三月一日」ときる。
戦前に、長崎伊太郎氏が採択した押形には「本造、庵棟、表裏棒樋茎ニ描キ流す 板目つまり、地沸付き美し、直刃風に小乱沸麗し(略)」と評を入れている。刃渡り100cmほど、茎34.2cm、茎34.2cm、反り3.4cm、元幅3.7cm、先幅2.1cm、元重ね0.9cm、先重ね0.57cm、目釘孔1、鋒近くに刃こぼれがあり、歴戦の太刀であったことがしのばれるという。

なお、蛍丸の経緯については、戦後の未返還・行方不明刀 広井雄一先生(元:文化庁 主任文化財調査官) 大素人:季刊誌 昭和53年(1978)~に詳しい。以下の括弧内は同誌よりの転載となる。
『旧国宝(現重文)来国俊太刀(永仁五年三月一日)(阿蘇家蔵)
阿蘇家の来国俊
終戦後行方知れずになった刀剣の中に、九州熊本県阿蘇郡の阿蘇家(阿蘇恒丸氏蔵)に伝わる来国俊の太刀がある。九州地方は連合軍による日本刀の被害が特に多く、例えば阿蘇神社の長光太刀、牡丹造腰刀は昭和20年12月4日に地元の警察を通じて熊本駐屯の連合軍に引渡されている。この太刀は現在所在不明となっており、おそらく当時連合軍へ引渡されたのではないかと云われている。
現在写真資料が無いため詳細をつくすることができないが、「古今銘尽大全」に茎の押形が所載しているので次に記す調書と共に参考にしよう。
一、太刀 銘 来国俊 永仁五年三月一日  一口
(法量)長101.cm(3尺3寸4分6厘)反2.4cm 元幅3.8cm 先幅2.1cm 元重1.0cm 鋒長3.5cm 茎長34.5cm 茎反1.2cm
(品質形状)鎬造、庵棟浅く、腰反踏張付く。鍛えは小板目肌、刃寄り柾交じり一面に沸づく。刃紋は匂深く、小沸付く、細直刃に小乱交じり、砂流ごころあり、金筋かかる。帽子は浅く湾れて尖りごころに返る。彫物は表に棒樋に連樋を掻流し、側に文字と護摩箸を刻す。但し文字は大部分摩滅している。裏は棒樋に連樋を掻流し、側に梵字と素剣を刻す。茎は生ぶ、先刃上り栗尻、鑢目不明、孔一。銘は佩表に「来国俊」、裏に「永仁五年三月一日」と切っている。
説明 以上の調書からみると相当大振りの堂々たるもので、しかも濃厚な彫物が施されている。「古今銘尽大全」によると彫物の文字は「八幡大菩薩」であることがわかるが、梵字については何字であるか明かでない。この太刀の由来は同家の伝えによると祖先の惟澄及び其の子惟武の所用で、この二人は南朝方に組して活躍し、菊池武義と共に今川、大内軍と戦い戦死し、その時これを帯びていたと伝えている。』

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

(法量)
長さ 3尺3寸4分5厘(101.35cm)
反り 1寸1分(3.4cm)
元幅 1寸2分(3.7cm)
先幅 7分(2.1cm)
元重ね 3分(0.9cm)
先重ね 2分(0.57cm)
茎長さ 1尺1分3厘(34.2cm)

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