包丁藤四郎(ほうちょうとうしろう)

  • 短刀 銘 吉光(名物:包丁藤四郎)
  • 長さ 8寸6分(26.1cm)

 

包丁藤四郎は粟田口藤四郎吉光作の短刀で、「享保名物帳」焼失之部に所載する。江州多賀城主:多賀豊後守高忠は、京都所司代として令名のあった人だが、包丁つまり料理法についても精通していた。しかし、応仁(1467)の乱のころの人であるから、政敵もいたはずである。その政敵からであろう、ある所で鶴を料理することを頼まれた。相手は高忠に恥をかかせるため、鶴の腹のなかに鉄の箸を入れておいた。それと察した高忠は、腰にさしていた包丁藤四郎で、見事に鶴を断ち切って、喝采を博した。
それがのち堺の町人所持になっていたのを、書道の大家として知られた摂津の鳥養宗慶が買いとり、子息の与兵衛宗精に伝えた。それを豊臣秀吉が召し上げたとみえ、上杉景勝が拝領し、のち将軍秀忠に献上した。秀忠はそれを紀州頼宣に与えた。頼宣は再び将軍へ献上した。
本阿弥光心は、包丁藤四郎がまだ鳥養家にあった時、押形をとっている。本阿弥光徳が押形を描いたのは、豊臣家にあったころであろう。慶長16年(1607)2月、埋忠寿斎は包丁藤四郎の金具を造っている。徳川将軍家でも「一」の刀箱に納め、御腰物帳の六番目に記載する、丁重ぶりだったが、明暦3年(1657)の大火で江戸城炎上において焼失した。
刃長8寸6分(約26.1cm)、平造。刃文は直刃、帽子は沸え崩れ、尖り心に少し返る。中心は少し区送りか。目釘孔二個。「吉光」二字銘。

名物帳には「御物 包丁(藤四郎) 銘有 長さ八寸六分 無代
多賀豊後守所持。去る所にて鶴の服中へ魚筋(箸)を入置(き)、疱丁を所望しける。此事をさとり此の脇差にて切る。魚筋(まなはし)ともに快(く)切れたり。夫故名付(く)。其後鳥養宗慶所持。息与兵衛へ伝(う)。
秀忠公へ上る。家康公へ被進、紀伊国殿拝領。又々上る。」
光徳刀絵図(毛利本・大友本)・継平押形にのせる。
埋忠銘鑑に「慶長十六年二月にかなぐ寿斎仕候」とある。尾張徳川家の包丁藤四郎(長さ7寸2分)これとは別物。

もう1振の包丁藤四郎は尾張徳川家に伝来したもので、同家の記録によれば、駿府御分け物、つまり徳川家康の形見分けの品で、もと刑部少輔所持という。刑部少輔とは大谷吉隆のことで、関ヶ原の合戦で討死した時、分捕ったものであろう。以後、同家に伝来、現在は徳川美術館保管。
刃長7寸2分(約21.8cm)、平造り、庵棟、表裏角止めの刀樋に連樋がある。連樋は研ぎへって僅かに残る。寸詰まり重ね薄く身幅広し。鍛えは小板目つんで地沸えつく。裏元にフクレ破れがある。刃文は直刃に小乱れ交じり、刃ぶちこまかに沸えつく。中心少し磨上げ、もとの鑢目右手下がり。目釘孔三。銘は「吉光」と大振りに切る。
この短刀を包丁と呼ぶのは、特に身幅が広く、形が包丁に似るところからきている。享保名物帳の消失之部にある「包丁藤四郎」と本作の関係において、一部に同一説とか別物説があった。だが、どちらも確たる資料に欠けていた。本作は名物の包丁藤四郎より1寸4分(約4.2cm)も短い。それは一見磨上げたためと見えるが、銘字の位置から言ってそれは否定されるし、また焼直しの形跡が些かも見られないから、本作は名物の包丁藤四郎とは別物のようである。かの大森彦七所蔵の包丁藤四郎との関係も明らかでない。「駿府御分物刀剣元帳」の出現によって、はっきりと別物であることが判明した。重要美術品。

尾張徳川家における記録などを列記すると、
・駿府御分物刀剣元帳 上々御腰物帳(元和2年) 中之御脇指
一 ほうてう 吉光 尾州
・駿府御分物道具帳 御腰物之帳(元和4年) 上御脇差
一 刑部少輔(大谷吉継) ほうてう 吉光 御道具有
ははき上下金下きせ上むく小刀柄うらくるみほり物三疋つれのしししととめ金目貫なし
・鞘書
「仁弐ノ弐拾六(仁2-26)」 名物包丁吉光御小脇指 銘有長七寸三分

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 8寸6分(26.1cm)