一期一振(いちごひとふり)

 

  • 御物
  • 太刀 (額銘) 吉光 (名物:一期一振)
  • 宮内庁蔵
  • 長さ 2尺2寸7分(68.78cm)
  • 反り 8分5厘(2.58cm)

 

 

京の粟田口藤四郎吉光が一生に一振りしか作らなかった、という太刀である。一期一腰と同義で、「享保名物帳」の消失之部に所載する。一期一振の出所については、朝倉・堺・毛利の三説がある。

朝倉説では、越前の朝倉家にあった、というが、それ以上の記述はない。堺説では、本阿弥祐徳が堺から銀三十枚で買ったものを、豊臣秀吉に金十枚で召し上げられた。その金のなかには釈迦の像も、鋳つぶされないでそのまま混じっていた。それでそれは京都の仏光寺に寄進した、という。毛利説では、豊臣秀吉が天正18年(1590)9月18日、毛利邸に臨んだときに、毛利家から献上した。拵えの金具は赤銅で、紋は総桐だったという。

豊臣家に入ると、目貫と笄は後藤祐乗作に取り換えられた。目貫は牽牛織姫の図、笄は九曜の紋入りだった。秀吉もこれは重宝視したとみえ、同じく吉光のさくである骨喰藤四郎とともに、”一之箱”に納めてあった。大坂落城のさいに焼けたので、焼き直させたとき、2尺8寸3分(約85.8cm)あったものを、2尺2寸8分(約69.1cm)に磨りあげ、銘は額銘にした、と「名物帳」にあるが、これには異説がある。

元和元年(1615)5月7日の戦における戦利品として、この刀が徳川家康のもとに送られてきた。家康はおおいに喜んで、これは豊臣秀頼が明石掃部にくれていたそうだ。分捕りの様子を知りたいと、言った。分捕った権田五太夫を呼んで訊いたが、掃部を知らないので、誰だったかわかりません、というあいまいな返事だった。明石掃部助守重(全登:ジュスト)はもと宇喜多秀家に仕え、二万石を食うんでいたが、関ヶ原の役で主家は滅亡してしまった。のち大坂城に入り、真田幸村と組んで奮戦していた。それで家康はその消息を知りたがったのであるが、確認できなかった。実は7日の戦に敗れ、逃亡していた。切支丹だったので、宗教がそうした行動を採らせたのであろう。この異説によれば、焼けなかったことになるが、事実は焼けている。「光徳刀絵図」で鋩子を比較してみると、文禄3年(1594)写しの毛利本と、翌文禄4年(1595)写しの大友本、つまり大坂落城前にとった押形は一致するが、落城の元和元年(1615)極月写しは、毛利本の写本であるにもかかわらず、鋩子の状態が明白に違っている。

これは、落城後、半年以内に焼き直したことを証明するもので、明暦3年(1657)の大火で焼けて、焼き直したとする説は、まったく誤りである。大坂落城の翌々月16日、下坂康継を京都によんで、大坂城で焼けた刀の焼き直しをさせたことが、「駿府政治録」に見えている。一期一振もそのとき焼き直したものである。そうなると、明石掃部から分捕った、という説と合致しなくなるが、憶測するところ、掃部は自害と見せかけるため、天下に隠れもない秀頼の拝領刀を残しておいて、家に火をつけ逃亡したのであろう。権田五太夫が分捕りの状況を明白にしなかったのも、焼け跡から拾ってきたとはいえなかったからであろう。
さて、落城後、この刀は名古屋城に預けっ放しになったため、「名物帳」でも御物、つまり将軍家蔵としたものと、尾張殿または尾張様としたものとの二種を生じた。しかし尾張家では所有権があると思っていたからであろう、文久3年(1863)、尾張家からこれを朝廷に献上した。それで現在は帝室御物となっている。

名物帳には「御物(一本 尾張殿とあり) 一期一振藤四郎 入銘 長さ弐尺弐寸八分
右弐尺八寸余有、焼直し、右之寸に磨上り入銘に成(元は弐尺八寸三分有之由)。樋は中心先迄有之。」

尾張徳川家における記録などを列記すると、
・豊臣家御腰物帳 御太刀御腰物御脇指太閤様御代ヨリ有之分帳 一之箱(慶長6年)
一 いちご一ふり刀
・駿府御分物刀剣元帳 上々御腰物帳(元和2年) 御腰物
一 いちご一ふり
・御殿守ニ有之 御腰物御脇指帳(慶安4年) 御腰物
一 一期一ふり 吉光 白鞘有 大坂焼物
・御腰物元帳(延享2年) 御天守御道具之内ヨリ出ル分
一 一期一振御刀 無代 吉光ト入銘有弐尺弐寸六分半棒樋有
・御腰物元帳
仁一ノ二十六
一 名物 一期一振御刀 吉光ト短冊太刀銘有長弐尺弐寸六分半 両方棒樋有
御天守物之内大坂焼物之由古帳ニ有 但焼直有之由年月不知
御鎺上金むく下金着
右は 大納言様初て 御上京之節 禁裏御所江 御進献 文久三亥九月

尾張徳川家の蔵刀は尾張徳川家御腰物帳に記載されている。白鞘には蔵番が記されており、儒教における孔子が提唱した五常「仁義礼智信」の一字と数字が鞘書 きされるのが通例となる。「仁一ノ十二」「仁二ノ八」などとあらわし、仁義礼智信の順序と数字が小さいほど重要性が高くなる。一期一振は「仁一ノ二十六 (仁1-26)」、鯰尾藤四郎は「仁弐ノ四(仁2-4)」となっている。
主要なものでは、
「仁壱ノ壱(仁1-1)」太刀 来国俊(国宝)
「仁壱ノ拾参(仁1-13)」刀 池田正宗(重文)
「仁一ノ二十六(仁1-26)」太刀 一期一振
「仁一ノ二十九(仁1-29)」太刀 光忠(国宝)
「仁壱ノ四拾(仁1-40)」太刀 国宗(国宝)
「仁一ノ四十七(仁1-47)」太刀 正恒(国宝)
「仁一ノ六十壱(仁1-60)」太刀 津田遠江長光(国宝)
「仁一ノ六十五(仁1-65)」刀 南泉一文字(重文)
「仁壱ノ七拾九(仁1-79)」刀 本作長義(重文)
「仁弐ノ四(仁2-4)」脇指 鯰尾藤四郎
「仁弐ノ拾弐(仁2-12)」短刀 無銘藤四郎
「仁二ノ二十(仁2-20)」脇指 物吉貞宗(重文)
「仁弐ノ弐拾壱(仁2-21)」短刀 不動正宗(重文)
「仁二ノ弐拾六(仁2-26)」短刀 包丁藤四郎(重美)
「仁二ノ参拾七(仁2-37)」短刀 後藤藤四郎(国宝)

刃長は2尺2寸7分(68.78cm)、反りは、8分5厘(2.58cm)、形状は、鎬造、庵棟、反りやや高く、猪首鋒になる。鍛えは、小板目よくつみ、地沸つく。刃文は、中直刃調に小乱れ、互の目交じり、小足入り、小沸つき砂流しかかる。裏物打上に飛焼がある。帽子は、表僅かにのたれこみ、先掃きかけごころの小丸。裏大丸。彫物は、表棒樋掻通し、裏棒樋掻流す。茎は、大磨上、先栗尻、鑢目切、目釘孔一。ただし焼き直し前ほどの働きはない。中心の佩き表に「吉光」と大振りな銘がある。本阿弥光徳はこれを正真といっていた。

越前康継は大坂城落城のさいに、焼失した多くの名物刀剣を焼き直ししている。その折に、多くの名物刀剣を模作して忠実な写しを1振、或いは複数振を製作している。一期一振も写しの1振が現存し、刃長:2尺1寸8分5厘、反り:5分、元幅:8分6厘、先幅:6分4厘、鋒長:1寸2分、茎長:6寸2分半、茎反:僅かとなる。銘文は表に「(葵紋)越前国康継 なんはんかね けさ二度落(以下切)」裏に「吉光 一期一ふり 本多飛騨守所持内」とある。元来は、一期一振の本歌を忠実に写したものと思われるが、のちに磨り上げを行われている。目釘孔の位置からして磨上は1寸弱で生ぶの長さを推察すれば本歌の2尺2寸7分(68.78cm)とほど同寸となる。人体の袈裟の部位を2度にわたり試し斬りした旨が銘文に記されている。なにか特別な理由や要請があったのか名物の写しで試斬を行っているのが面白い。
所持銘にある本多飛騨守成重は越前康継の最も有力な支援者であった。慶長12年、松平秀康(結城秀康:越前福井藩:松平家初代)が34歳で、死去してしまったため、長子:忠直が12歳で越前福井藩松平家七十五万石をついだ。慶長17年、将軍秀忠は、本多成重を越前丸岡藩四万石に封じ、忠直の臣として国政を摂せしめた。父:本多重次の名文「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙でも知られる。越前康継は慶長10~12年頃に徳川将軍家の抱え工となっており、本多成重との関係もこの頃からといわれている。

藤四郎吉光の長いものは一期一振のみと長年にわたり言われていたが、近年、犬山藩主成瀬家の旧蔵で、光山押形に所載するものが発見されている。打刀の走りとみられる脇指で、刃長1尺9寸2分(約58.2cm)となり、佩表の刀銘となる。銘字を大振りに目釘孔の下の平地に切り、しかも掻き流しの棒樋の先端の横に「光」の字を位置しているのは、毛利本および大友本の光徳刀絵図に見られる一期一振の生ぶの時の態、ならびに三矢本光徳刀絵図にある別な生ぶの吉光の太刀の茎に全く一致するものである。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

(法量)
長さ 2尺2寸7分(68.78cm)
反り 8分5厘(2.58cm)
元幅 1分5厘(3.18cm)
先幅 7分8厘(2.36cm)
元重ね 2分5厘(0.76cm)
先重ね 2分2厘(0.67cm)
鋒長さ 1寸1分5厘(3.48cm)
茎長さ 5寸7分(17.27cm)
茎反り 僅か