上部当麻(かんべたいま)

  • 短刀 (朱銘) 当麻 本阿(花押)(光常) (名物:上部当麻)
  • 長さ 8寸7分(26.4cm)
  • 反り 極く僅かに内反り

 

 

上部当麻は大和国当麻派極めの短刀で「享保名物帳」に所載する。初め上部越中守貞長が所持したことに刀号が由来する。城和泉当麻ともいい、埋忠銘鑑には「城和泉たえま」として所載がある。貞長は伊勢神宮の外宮の御師で、四百三十石を領していた。貞長が伏見に出たとき、立ち寄った古道具屋においてこの短刀があったので、代金一枚で買うことに決めた。旅宿から代金を持って、再び古道具屋に行ったが、懐中にカネがない。引っ返しながら探したところ、途中に黄金一枚が落ちていた。それを拾って三たび古道具屋に引き返し、上部当麻の短刀を買った。
旅宿に帰って帯を解いたところ、懐中から最初の黄金がポタリと落ちた。結局、短刀はただで買ったことになった。無銘であるため、本阿弥光徳に見せたところ、大和国の当麻派の極めがついて、代金子百枚の折紙がついた。慶長になって、伊勢神宮の御師三名が、徳川の家臣で七千石をはむ城織部昌茂のもとにきて、百貫で買ってくれ、という。大神宮に伝来した短刀であるならば、と言うので、代金として黄金七枚をもって買い上げた。
慶長13年(1608)、昌茂はこれに埋忠寿斎に金具を作らせ、拵えを新しくした。ところが、大坂夏の陣に出陣していたが軍令を犯してしまい、同家は改易となったため、上部当麻も手放さざるを得なくなった。本阿弥光栄がそれを禁十五枚に買い、大和郡山城主:奥平下総守忠明に売った。その子:忠弘のとき、正保2年(1645)、百五十枚に昇格した。どういう訳か、万治のころ、忠弘がこれを売りに出したので、雲州松江城主:松平出羽守直政がこれを購った。寛文元年(1661)、本阿弥光温はもと行の棟だったのを真の棟に仕立てを直して、翌寛文2年(1662)年、代金子二百枚の折紙をつけた。寛文6年(1666)4月13日、直政の遺物として将軍に献上した。
貞享2年(1685)、将軍綱吉の女:鶴姫が、紀州家の世子:綱教に入輿することになったので、本阿弥家にやって朱銘を入れ、折紙も五千貫に上げさせた上、同年3月6日、綱吉より婿引きでとして綱教に郷義弘の刀と朱判正宗の脇差を与え、綱教の父、つまり紀州藩主:光貞に与えた。爾来、紀州家に伝来していたが、昭和2年4月4日、東京美術倶楽部において紀州徳川家の売立に出されて、今井貞次郎氏が2,398円の価格で落札して入手した。
上部当麻の拵えは出し鮫に、後藤宗乗作の二匹獅子、小柄も同作で獅子三匹を彫る。

名物帳には「紀伊国殿 上部(当麻) 城和泉守当麻 朱銘 長さ八寸七分 代 五千貫
表剣、裏菖蒲樋。伊勢上部越中貞長所持。伏見の古道具や見せ(店)にて代金壱枚に定(め)旅宿に帰り、夜に入て黄金壱枚紙にも不包して懐中仕(り)彼道具やへ持参(し)相渡す節に至り金無之。途中にて落しけると存(じ)立帰る道すがら尋ける処往来者(を)不見。道に有之、悦(び)又道具屋へ行(き)、金子を渡(し)、脇指を受取(り)帰宅、草臥寝間へ行(く)。帯とける(に)懐中より黄金出る。右道具代に渡(し)つる黄金は不慮にひらいたる也。其後てん々々して松平故下総守殿に有。右之次第は上部と別懇之大黒や栄室と申者物語(る)を伝(える)也。正保二下総守殿事鶴千代殿より来(る)。参千貫小書に城和泉守殿に右有り之と記(す)に付(き)城半左衛門殿へ光山尋ける。和泉を織部と申時大神宮の御道具と申(す)に付黄金七枚被遣候由其後松平故下総守殿へ払遣由両様也。城和泉守 織部 半左衛門。万治頃下総守殿より御払い、松平故出羽守殿御求(め)、寛文元に公温へ来り。庵を三つ棟に直し同二年弐百枚也。為遺物家綱公へ上る。貞享二鶴姫君様御入輿之刻代上り、朱銘出来、紀州中納言殿拝領。」

形状は、平造、三ツ棟、中筋広く、身幅一段と広く、寸延びて、重ね厚く、極く僅かに内反りつく。鍛えは、板目良く錬れて精良な肌合となり、杢・流れ肌交じり、地沸厚くつき、地景細かによく入る。刃文は、直刃、物打辺上より焼幅を広め、腰元に表は小互の目ごころ交じり、裏は小さくのたれ、足入り、匂深く、沸厚くつき、ほつれ、金筋・砂流しかかり、匂口明るく冴える。帽子は、表浅くのたれて小丸、先掃きかけ、裏強く掃きかけて火焔風となる。彫物は、表に素剣、裏に菖蒲樋(中程喰違)、共に彫り口が深い。茎は、生ぶ先入山形、鑢目浅い勝手下がり、目釘孔一、指表目釘孔の下中央に「当麻」、裏に同じく「本阿(花押)(光常)」の極めの朱銘がある。

「享保名物帳」には、他にもう一振りの上部当麻が所載する。こちらは元来は「桑山当麻」と呼ばれる名物で、もとは近江国大津にあったものを、大和国で二万六千三百八十石を領有していた桑山伊賀守元晴が求めた。桑山家は嗣子:貞晴が寛永6年(1629)、早世のため、封地を没収されたので桑山当麻も手放さざるを得なかったのであろう。その後に紀州徳川家の蔵刀となっていたが、同家にはもう一振「上部当麻」があったので、尾州徳川家と道具替えをすることになった。紀州家に残った「上部当麻」と本阿弥家が混同したものであって、こちらは「桑山当麻」と呼ぶのが正しい。折紙ははじめ百五十枚、慶安3年(1650)に五千貫、正徳3年(1713)三百枚と昇格している。尾州徳川家四代吉通が正徳3年(1713)、7月26日、25歳で急逝する。長子:五太郎がわずか3歳で、五代目を継いだが、3ヶ月後の10月18日夭折する。12月11日、五郎太の遺物として、桑山当麻は将軍家に献上された。「享保名物帳」には裏に菖蒲樋、朱銘とあるのは「桑山当麻」と「上部当麻」と混同したものといわれている。

名物帳には「御物 上部当麻 桑山とも 朱銘 長さ八寸参分半 代金 参百枚
表剣、裏菖蒲樋。江州大津より出る。桑山伊賀守殿御求(め)所持。其後紀伊国殿に有。道具替にて尾張殿へ参る。慶安三年代五千貫也。昔より桑山と覚たる名物也。今一腰上部と申(す)名物有之。如何之事に証文に上部と出来候哉。正徳三究(め)。同年徳川五朗太殿遺物に上る。」

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

(法量)
長さ 8寸7分(26.4cm)
反り 極く僅かに内反り
元幅 8分7厘(2.65cm)
茎長さ 3寸7分(11.2cm)
茎反り 極く僅かに内反り

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