亀甲貞宗(きっこうさだむね)

  • 指定:国宝
  • 刀 無銘 相州貞宗 (名物:亀甲貞宗)
  • 東京国立博物館蔵
  • 長さ 2尺3寸4分(70.9cm)
  • 反り 8分弱(2.42cm)

 

亀甲貞宗は相州貞宗作の刀で「享保名物帳」に所載する。亀甲の紋が中心先に彫ってあることが刀号に由来する。亀甲二重のなかに菊紋を切っていて、これは「見聞諸家紋」によると、播州赤松家の臣:中村家の家紋である。中国の雄:赤松家は「嘉吉の乱」、つまり赤松満祐が将軍義教を襲撃、討死させたため、逆賊として領地を没収された。困った遺臣達が、南朝にある神璽を奪取してくることを条件に、赤松家再興を願いでると、それならば、と幕府も再興を約束した。
喜び勇んだ遺臣たちは、長禄元年(1457)12月2日、吉野の奧の南朝を襲撃した。遺臣のひとり中村弾正忠貞友は、討ち取った二の宮親王の首を持って、引きあげる途中、南朝方に逆襲され討死した。その時は神璽奪回は失敗したが、翌年(1458)成功した。中村家には北朝の忠臣というので、菊紋を贈った。それで従来、亀甲のなかに桐紋が家紋だったが、桐と菊を替えて、家門の誉れとしていた。
遺児の河内守や駿河守は、功臣の遺族というので、御番衆として重用されていたが、戦国時代になると、赤松家とともに衰退して行った。勢い亀甲貞宗も手放さざるを得なくなった。
雲州松江の藩祖:松平出羽守直政が所持し、のち奥州菊多(菊田)郡窪田(福島県いわき市)に陣屋をおく二万石の土方家にあった。藩祖:河内守雄久は、二代将軍秀忠の覚え目出度く、則重の短刀や来国光の脇差を拝領している。この亀甲貞宗があったとしても、不思議な家柄ではなかった。ところが貞享元年(1684)、四代伊賀守雄隆のとき継嗣をめぐるお家騒動で断絶となったので、亀甲貞宗も売りに出された。
土方家を出た亀甲貞宗を買っていたある商人から本阿弥光秀が買ったとも、奥州南部藩の側用人:赤沢某が直接150両で買ったともいう。赤沢某はかねて本阿弥家について鑑定を学んでいたというから、本阿弥家を通して買ったのであろう。そのことを藩主:南部信濃守行信に報告すると、よくやった、というので、亀甲貞宗を買いあげ、赤沢某に褒美を与えた。
元禄11年(1698)、将軍綱吉が尾張藩邸に臨むことになったとき、南部家に対して、献上刀は二百枚以上でなければならぬが、亀甲貞宗は二百枚の代付けだし、かつもと徳川家の旧蔵刀だから、お譲り願いたい、と申し出があった。南部家でも尾張家の懇望を断るわけにはいかないので、致し方なく承諾して尾州家に贈ったので、同家から返礼として、道誉一文字の太刀と綾小路行光の短刀を届けてきた。尾州家では同年3月18日、将軍綱吉お成りのとき、亀甲貞宗と宗端正宗の短刀を献上した。
将軍家では、宝永元年(1704)12月5日、将軍綱吉は新たに養子にきまった家宣に、これを譲った。享保9年(1724)12月朔日、八代将軍吉宗は長子に家重という名を与えたとき、この刀を譲った。元文5年(1740)12月15日、九代将軍家重は長子に家治という名を与えたとき、これを譲った。宝暦12年(1762)11月朔日、十代将軍家治は長子竹千代、つまり後の家基(早世)の誕生七夜の祝いとして、これを与えた。
昭和11年5月6日付、徳川家正公爵名義で国宝に認定。戦後、同家をでて渡辺誠一郎氏所有。昭和40年5月29日、重要文化財よりに新国宝に昇格している。平成3年、渡邊誠一郎氏が東京国立博物館に寄贈されたものである。

名物帳には、「御物 亀甲(貞宗) 磨上 長さ弐尺参寸四分金弐百枚代付
中心裏(先に)亀甲有。元松平出羽守殿所持。其已後土方殿に有。光秀求(む)。南部殿へ売る。又其後尾張殿御求(め)。元禄十一寅之三月十八日 綱吉公御成之節宗端正宗と一所に上る。」

「将軍徳川家御腰物台帳」
宝暦十二午年(1762)十一月朔日、御七夜御祝儀之時、
浚明院様(十代将軍家治)より文恭院様(十一代将軍家斉)江被進。
亀甲貞宗 御刀、長二尺三寸四分(約70.9cm)、代金三百枚。
是者、中心に亀甲之彫有之名付。
松平出羽守所持。後、土方家伝江。
又、南部家に渡る。
後、尾張殿御所持。元禄十一寅年(1698)3月18日、亭に御成之時上る。

形状は、鎬造り、庵棟、身幅やや狭く、中鋒の尋常な刀姿である。鍛えは、板目よくつみ、地沸が厚く地景よく入る。刃文は、浅い大のたれに小互の目ごころ交じり、小足入り、総じてよく沸づいて所々に荒めの沸を交じえ、金筋頻りに入り、砂流しかかる。帽子は乱れこみ、沸崩れて掃きかける。彫物は二筋樋を彫り、表は掻き流し、裏は掻き通す。茎は大磨上げ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔一、無銘、指表の茎先に花菱亀甲文を毛彫りする。

佩き表の中心先に、花亀甲の彫物がある。亀甲貞宗の異名はこれから採ったものである。亀甲紋は出雲神社の神紋である。亀甲貞宗の紋も出雲神社と直接的でなくても、何らかの関係がありそうである。
亀甲文様とは正六角形の幾何模様をいう。その形が亀の甲羅の形に似ているのでこの名があるが、亀の甲羅を象ったものではない。この文様は我が国ばかりではく、諸外国でも古代から見られる原始的な模様である。正六角形の単独のものを亀甲形と呼び、左右上下に連続したものを亀甲繋ぎと呼んでいる。紋章の場合は単独のものが多い。
亀甲が文様または紋章として用いられた意味は、六角形からくる均整のとれた幾何学的な美しさと、長寿の象徴として亀のもつ吉祥的な意味からである。亀甲文様の歴史は古く、我が国では飛鳥時代の蜀紅錦にすでに見られており、奈良時代には各種の織物としてこの文様を織り出した。平安時代になるとこの文様は盛んに用いられ、衣装や調度品などに数多く見られた。「年中行事」「伴大納言絵詞」「北野天神縁起」などの絵巻物には必ず亀甲文様が描かれている。また、車紋として用いたことが「大要抄」「蛙抄」に載っている。家紋はこのような文様から移行したものである。
正六角形からなる亀甲紋はその外辺が概ね2つに分かれ、一重のものと二重のものがある。二重のものを子持ち亀甲または二重亀甲というが、たんに亀甲と呼ぶ場合が多く、一重のほうを一重亀甲と呼んでいる。また、亀甲の数により一つ亀甲から三つ亀甲(三つ盛り亀甲)まである。亀甲紋の場合、単独で用いるより中に他の紋を入れて用いる場合が多い。
亀甲が家紋として用いられた正確な時期は明らかでないが、南北朝の時代に用いられたことが「参考太平記」に次のように載っている。「又湖上の方を見下たれば、西国北国東海道の船軍に習たる兵共と覚て、亀甲、下濃の瓜紋、連銭、四つ目結、赤幡、水色、三須浜、家々の紋描きたる旗百余流、潮ならぬ海に影見えて・・・」とあり、また「大塔軍記」の中にも亀甲紋を載せている。「見聞諸家紋」には、三つ亀甲紋の二階堂氏・豊田氏、亀甲片喰に二月文字紋は小田氏、亀甲に有文字紋は浅山氏、亀甲に桐紋は藤民部、亀甲に十六葉菊紋は宇津木氏・中村氏、大文字に亀甲紋は湯浅氏の家紋として載っている。また「阿波国旗下幕紋控」には、水に亀甲紋は古川氏、大文字に亀甲紋は湯浅氏、亀甲紋は高市氏、竹丸中に亀甲紋は宇奈瀬氏などが掲載されている。戦国時代には近江国の浅井氏が用い、徳川時代には大名の堀氏をはじめ幕臣では40数家が用いた。
亀甲紋は出雲大社の神紋として有名である。そして出雲地方の神社では数多く亀甲紋を神紋としている。出雲大社が神紋に亀甲紋を用いた理由は、大社の祭神大国主命の恵徳が六方にあまねく広まる形象であるという。
また他の説には出雲国は太古、日本の北に位置して、北方は玄武、すなわち北方の守り神である亀であるので、亀甲紋を用いたものという。これは陰陽道からでたものといわれ信憑性がある。この亀甲紋は当大社に奉仕している千家、北島家をはじめ大社に関係深い社や出雲地方の亀甲紋を神紋とした神社の社家もみな亀甲紋を用いている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺3寸4分(70.9cm)
反り 8分弱(2.42cm)
元幅 8分6厘(2.6cm)
先幅 5分9厘(1.8cm)
鋒長さ 8分9厘(2.7cm)
茎長さ 5寸7分7厘(17.5cm)