希首座(きしゅそ)

  • 脇指 銘 大和守宣貞
  • 長さ 1尺8寸6分5厘(56.5cm)

 

希首座とは希という京都大徳寺の首座、つまり上位の僧を、慶長19年(1614)2月中旬、熊本藩主:細川忠興が手打ちにした脇指である。原因は、希首座は忠興により滅ぼされた一色氏の生き残りであり、仇討ちを果たそうと忠興に近づいたともいわれている。細川家の家臣だった希首座の弟:速水孫兵衛まで、上意討ちしているので、忠興の単なる癇癪玉破裂ではなかったという。大徳寺の僧衆も所司代:板倉勝重に訴え出たが、細川家を潰せば喧嘩両成敗で、大徳寺も取り潰すといったので、大徳寺側も泣き寝入りになった。
希首座は細川家の抱え工:大和守宣貞の作、刃長1尺8寸6分5厘(約56.5cm)となる。希首座拵えは肥後拵え典型の一つで、柄は黒漆塗りの鮫をきせ、ふすべ革で巻く。頭の金具は赤銅で、浪に山路の図、縁は樋腰、漆の塗り革包み、目貫は赤銅七々子、丸に金花菱の三双。鐔は正阿弥作で、鉄の耳打ち返し、銀象嵌で四角のなかに杉の並木を描く。小柄は赤銅刻み。鞘は刻みの鮫鞘に、泥摺り小尻をつける。下げ緒は茶の組み糸とする。忠興はこれを長男:忠隆に譲った。忠隆はのち忠興から勘当されたが、希首座は忠隆の系統である細川内膳家に伝来した。
大和守宣貞は銘鑑によれば、初代を寛永頃の肥後延寿末流の鍛冶とし豊前小倉にてもうつという。「豊州小倉住大和守藤原信貞奉納宇佐八幡大菩薩丙午八月吉日」「肥後隈本住宣貞」「大和守藤原信貞」などと銘する。二代は元禄の頃としている。

「肥後金工大鑑」には、希首座拵とその中身の刀について詳しい。下記は同書よりの抜粋となる。
希首座拵は中身は大和守藤原宣貞の脇指である。宣貞は細川家の抱工で、寛永9年の「宿割帳」には刀鍛冶としてその名があり、十人扶持を給されている。勿論この脇指の他にも作刀が現存し、なかなか上手である。時代は寛永頃と伝えているが、年紀のあるものをみたことがないので明かでないが、少なくとも慶長・元和・寛永とすべきであろう。
この拵は、「頭ニ赤銅ノ浪ニ山道ノ彫、縁ハ樋腰、青漆ノ塗革包ミ、目貫ハ赤銅魚子、丸ニ金花菱の三雙、鐔ハ正阿弥作、鉄ノ耳打返シ、銀ノ杉森方円ノ象眼、小柄ハ赤銅刻ミ、鞘ハ刻ミニ塗鮫ノ研出シ、鐺ハ刻ミ落シ、鉄ノ泥摺ナリ。」と肥後刀装録に説明がある。
この拵の本科も現在所在がわからない。模造はいろいろあるが、大月孝治君所蔵のものは比較的に時代も古く、子飼細川家伝来とも言う。但し、縁頭は本科の通りであるが、目貫は赤銅揚羽鶴丸紋三双であり、小柄も赤銅の刻みではあるが中央に桐紋を据えている。
柄は黒塗りで鮫を着せ、栗形、折金、裏瓦は角黒塗である。下緒は茶の畝打であるが本科については不明である。
肥後刀装録には、「三斎公嘗テ京都紫野大徳寺ニ到リ、希首座ト僧ト対談セシニ、何事カ公ノ忌諱ニ触レ、憤怒ノ余リ、一刀ニ殺害セラル。故ニ其称アリト云フ」と拵の名前の依って来るところを説明している。
細川五代年譜には、「慶長十九年二月中旬」とあって明確な日時はわからないが、ほぼ明白であり、大徳寺の希首座を「仔細有て忠興公、御手討被成」と記している。
そこで、大徳寺の僧衆が大いに怒って、京都所司代板倉伊賀守勝重に訴状を出し、是非忠興を処分するように強く要求したのに対し、伊賀守勝重は、忠興を取り潰すと同時に大徳寺をも取り潰してしまうがそれでよいか。それでよいなら江戸へも連絡してその措置をとる旨を申送ったために、大徳寺衆もそのまま泣寝入りとなったと云う。
「此の事に付、希首座弟、速水孫兵衛を御成敗被仰付候。仕手は松山種兵衛元重、松岡久左衛門にて有之なり。孫兵衛を松山いだき抱へて、松岡につかせ候。江戸御譜請の石場、伊豆国宇佐美にての事也」とその後の事実に関して述べている。
希首座を切り、更にその弟までも手打ちにするということは、余程の事情があったことは勿論であろう。
この刀は後に三斎公から、細川忠隆に譲られ、爾来子爵男爵家に伝来し、刀装録が出版された昭和九年より先、昭和六年十月、肥後刀剣会が主催して、熊本勧業館に陳列された当時までの現存は明白である。

希主座(きしゅそ)は熊本地方では、これを訛つて「きつそ」と呼んでいる。細川三斎が、慶長十九年二月中旬のある日、京都大徳寺の希首座を無礼討ちにした時の刀、和泉守兼定を、後に「希首座兼定」と云い、これに附けられている打刀拵を「希首座拵」と称する。
「首座」は善家では「しゅそ」と訓み、「希」は僧侶の名前の一字である。
例えば「虚谷希陵」とか、「在光希譲」などのように「希」の字を使つたものであるが、希首座の場合は「口口口希」という名前の禅僧のことであるが、遺憾乍ら、目下の調査ではその名前を明らかにしない。大徳寺関係には「宗」の字を用いるものが多いから、「宗希」などと云つたのではないかとも想像される。
「希」の字を名前の一番下においた理由は、例えば大燈国師の法名は「宗峯妙超」と云い、呼んで「超首座」といつたように、首座の上につけるのは、一番下の文字である。
「首座」は別に「座元」とも云い、永い間、修行を積んだ徳業兼備の長老のことであり、これ等の長老は、座禅の折には、一番上座に坐り、衆僧はこれに服従し、「首座」あるいは「座元」と呼んで尊敬した。従つて別に僧位というものではない。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 1尺8寸6分5厘(56.5cm)