小烏丸(こがらすまる)

  • 御物
  • 太刀 無銘 天国 (名物:小烏丸)
  • 宮内庁蔵
  • 長さ 2尺0寸7分3厘弱(62.8cm)
  • 反り 4分弱(1.2cm)

 

小烏丸は平家重宝の太刀で、単に小烏ともいい、その語源については次の三説がある。
烏持参説 桓武天皇が南殿に出御されていたとき、烏が一羽飛んできた。笏をもって招くと下りてきた。私は伊勢大神宮から剣のお使いとして参りました。と言って、翼の下から一振りの太刀を落としたので、天皇はそれを「小烏」と命名された、と古剣書にある。軍記物では八尺(約242.4cm)の霊烏から出たから、小烏と命名したと説明している。
兜の飾物説 平貞盛が天慶2年(939)平将門討伐に向かうときに朝廷から拝領した。将門は兵法を用いて八人に分身した、というが、それは影武者を八人おいたのであろう。貞盛が拝領の太刀をもって、小さな烏の像を兜の天辺につけている一人を斬ったところ、将門も斬られた。つまり分身と見たのが将門自身だったことになる。小さな烏をきったので、小烏と命名したという。
小韓鋤説 これは幕末の国学者が唱えたもので、韓鋤(からさび)とは韓国から渡った剣のことである。「日本書紀」では鋤をサヒと訓ませてあるから、それがシに転じて小韓鋤がコカラシとなり、そしてシがスに訛ってコカラシになったとも、鋤を普通にスキとよんで、小韓スキだったのが小韓スと縮まったのかであろう、という。なお、古代の鋤の先は剣に似ているので、スキは剣の意味になるともいう。以上の説は学者による文字の遊戯のようである。
次に、小烏丸の作者については、大和の天国説が通説になっているが、奥州の諷誦説・伯州大原真守説・備前宗吉説などがある。小烏丸の刀身の説明として、まず刃長については、二尺六寸五分(約80.3cm)と古剣書の記述は一致している。さらに剣形について、薙刀の中心を切ったようで、中心は短い、というもの一致している。銘については、「大宝二年八月廿五日 天国」・「大宝三年 天国」とするほか、「大宝二年 天国」としたものがあるが、これは大宝二年の誤写に違いない。
平忠盛以後の伝来については二説ある。
軍記物の説 午睡していた忠盛を大蛇が呑もうとしたとき、小烏丸がひとりでに抜けて、蛇に向かった。蛇はそれを恐れて逃げ去ったので、異名を「抜丸」と改めた。その後、忠盛から五男:頼盛へ、さらに平重盛へ渡った。重盛はこれを佩いて、平治の乱で悪源太義平とわたり合った。平家滅亡のときは維盛が相伝していたが、肥後守貞能のもとに預けてあったという。
古剣書の説 鎌倉幕府の侍所別当:和田義盛の家に伝来していた。義盛が建暦元年(1211)、北条氏を討とうとして兵をあげたとき、足利義氏は北条氏に味方し、義盛を敗死させたので、小烏丸は義氏の手に移ったという。すると、義氏五代の孫は足利尊氏であるから、足利将軍に伝わったはずであるが、これについての記述は見出せない。一説によれば、小烏丸は鎌倉の法華堂に納めてあったという。法華堂は延慶3年(1310)11月、火災にあい祭神である源頼朝の影像まで焼失している。まして小烏丸など持ち出す暇はなかったはずである。すると、小烏丸は鎌倉末期すでに地球上から姿を消していたことになる。
水心子正秀の説 天国の作で、鞘書きに平宗盛佩之とあり、朱雀天皇より拝領と言われている。伊勢家は時の将軍より拝領したもので、刃長二尺五分(約62.1cm)ある、というから、正秀は実見したのであろう。
伊勢家の説 江戸中期の故実家で、小烏丸の所持者だった伊勢貞丈によれば、平貞盛から小烏丸と唐皮の鎧が伊勢家に伝来していた。唐皮は応仁の乱で焼失したが、小烏丸は災いを免れた。今の太刀拵えはそのころ新調したものという。伊勢家は伊勢平氏と称しているが、同家の系図の前書きに、正応(1289)ごろの俊継が、天照大神の託宣によって伊勢平氏と称するものでも、先祖が平氏の郎党だったという理由だけで、そう称しているものがある。伊勢家もその類だったので、天照大神を担ぎ出したのであろう。すると、俊継以前の系図は後世偽作したことになる。その偽造工作は江戸後期まで続いたので、「寛政重修諸家譜」の編者も、「ひとりこの家の系図にをいては、異なるもの際おほくして、両可決しがたし」と匙を投げたほどである。したがって平貞盛の子孫ということも後世の偽称だから、貞盛から小烏丸が伝来している訳もない。もし伝来していたら、平治の乱で平重盛は佩いて行けなかったはずである。
伊勢家の伝来の小烏丸の外装は、応仁(1467)ごろの修復というが、柄も鞘も金具をつけた上を、蜀紅の錦で包んである。このように鞘を布で包む、つまり鞘袋をつけた拵えを御物拵え・御物造りという。足利将軍の佩刀がこの拵えになっていた。応仁応仁(1467)ごろの伊勢家は貞親といった。幕府の執事として、将軍義政の信任があつく、大いに権勢を振るっていた。しかし人物は良くなかった。斯波家の継嗣争いのとき、候補者の一人である渋川義兼の妾が、定親の妾と姉妹だった関係で、嫡子:貞宗の諫止もきかず、義兼を強引に推した。結局、将軍の同意が得られないとなると、義兼に兵を挙げさせた。しかし敗れて江州に逃げて行った。その後、復職していたが、衆人の憎みをかい、また逃亡した。そういう男だったので、分に過ぎた御物造りの太刀を作り、それを小烏丸と詐称したことも、十分考えられる。
小烏丸が真に平貞盛からの伝来ならば、修復しても貞盛時代の拵えにするのが常道である。それをせず、当時はやりの御物造りにしたことは、当時新規に作ったからである。その動かぬ証拠として、柄糸の巻き止めがある。鬼丸では刃方と棟方と二か所で真結びにする、という原始的な巻き止めになっているが、小烏丸では、巻き止めの糸の切れ端を見えないようにする、という後世のやり方になっている。当時は応仁の乱によって焼野が原になった。すべてが抹殺された時代である。偽作しても分からない時代だったが、いくら腹黒い貞親でも、そこまでは気が回らなかったとみえる。
江戸初期には平家重代の小烏丸として、りっぱに通っていたと見え、本阿弥光悦の押形にも、見事な筆跡で「伊勢家天国之真形也」と書き入れがある。切先から二寸(約6.1cm)ほど下に、かなり大きな地符がある。現存の小烏丸にもこれがあるから、同一物であることは疑いないが、光悦の押形では中心に、「大宝□年□月日 天国」と銘があるのに、現存のものにはそれがない。おそらく「大宝弐年□月日八廿五日 天国」とあったのを、光悦が押形をとったあと、伊勢家で消したのであろう。現在は消した痕は見えないが、もともと小さな線書きだったら、うまく消せる。
何故、消したかー、「大宝令」によって、刀に命を切るように規定されたが、それの写しが全国に配布されたのは、大宝二年(702)十月だった。大和国宇田郡にいた天国が、その規定を八月二十五日に知るはずがないから、そんな銘はあり得ないことになる。このことに伊勢家が気づいたので、伊勢家で銘を消させたのであろう。最初、古剣書に刃長は二尺六寸五分(約80.3cm)、薙刀の中心を切ったような剣形で、中心は短い、とあるのを見て、剣形はそのように作らせたが、刃長は長過ぎるので、二尺七寸(約62.7cm)に短縮させた。
中心は逆に短くては格好が悪いので、六寸六分(約20.0cm)と長くした。なお中心が新しくては化けさせられないので、わざと朽ちこんだように腐らせたのであろう。貞丈の子:貞春は、応仁(1467)以後、錆を生じたことがない、と自慢したという。同じ鉄で作ってあるのに、上だけ錆びないで、中心だけひどく錆びるというのはおかしい。中心だけが腐り過ぎているのは、人為的に腐らせたと見るべきである。
刀身は平安初期と見る説がある。これは明らかに大宝(701)ごろ、天国作ということを否定したものであるが、刀身はそんな古いものではない。平安初期とすれば三条小鍛治宗近より200年も古いが、両者を比較すれば、小烏丸は地鉄も刃取りも、宗近の作より遙かに若い。小烏丸を実見した水心子正秀は刀工としての立場から、「出来はおらしがねを数遍鍛へたるものと見えたり」、と批評している。
卸し鉄には二義あって、砂鉄をとかして鉄塊にする場合と、銑鉄をとかして鋼鉄にする場合とがある。水心子正秀の言っているのは後者の場合であって、その方法は、大宝(701)ごろはもちろん、平安初期にもなかった。相州行光が大山不動尊からの夢告によって、感得したという伝説があるくらいだから、古くても鎌倉末期以降となる。それらの予備知識を頭において、中心の朽ち込みを人為的に見、刀身だけを冷静に眺めれば、江戸期すでに「剣ヲ相スル者、以謂ク大宝中ノ良治・天国ニ非ズ。殆ド此レニ及バザルナリ」、と言っているのに同意せざるを得ない。したがって貞親が偽造させたことも首肯できるるであろう。
伊勢貞丈の言うところによれば、貞親四世の孫・貞孝およびその子・貞良が、永禄五年(1562)討死すると、貞良の子・虎福丸はまだ五歳の幼児だった。家臣に伴われ若狭に逃げたが、小烏丸は京都愛宕山の長床坊に預けていった。長床坊は貞良の弟だったというが、伊勢家の系図には載っていない。江戸期になると三度も将軍の上覧に供したし、「集古十種」や「刀剣図考」にも収録されたので、小烏丸を正真とする見方がすっかり定着してしまった。明治になると、伊勢家と同じく平家の子孫で、しかも愛刀家だった旧対馬藩主:宗重正伯爵がこれを買い取り、外装をすっかり修復し、研ぎも本阿弥平十郎に新たにやらせたのち、明治十五年三月、明治天皇に献上した。現在も御物となっている。
付属する錦包糸巻太刀拵は古作が伊勢貞友の代まで存在したそうであるが、弘化二年(1845)の火災で焼失し、献上の際に重正が古記録をもとに復元製作したものである。
江馬家の説 飛騨国吉城郡高原、現在の岐阜県吉城郡神岡町殿の豪族:江間氏の初祖は、平清盛の弟:経盛の子孫という。経盛が壇の浦で討死したとき、その愛妾に二歳の遺児がいた。その愛妾はのち北条時政の妾となったので、遺児は時政の長子:江馬小四郎義時に預けられた。やがて元服して江馬小四郎輝経と名乗ったが、讒言にあって飛騨国に流された。そのとき小烏丸を持ってきた。それから十数代後の輝盛は、天正十年(1582)、徳川家康の臣:金森長近に攻められ殺された。長近が小烏丸を押収してきて、家康に献上したが、平家の重宝は源氏の家康には不要として返された。
それで高山市の名刹:国分寺へ寄進した。ところが、いつの間にか同寺を出て、越中に流れていた。それを慶長7年(1602)、飛騨の人が買い戻して国分寺に再び寄付した。その後、文化(1804)ごろか、住僧が江戸へ売りに行った。寄付金を渡しただけで仲介者が行方をくらましたので、小烏丸は行方不明になった。それを数年後、伊勢貞丈が古道具で発見し買い取った。それが伊勢家の小烏丸であるという。この説は国分寺蔵と伊勢家蔵を混同している。なお輝盛を敗死させたのも金森長近ではなく、牛丸親正だった。そのほかのことも、あまりにも小説めいていて信をおきがたい。
国分寺の説 同寺では「小鴉」と書いているが、江馬家の小烏丸と同一物である。もともと平家の重宝であったので、平惟盛は寿永三年(1184)屋島をのがれて紀州にわたるとき、弟の資盛の嫡子:六代に送ってやった。六代は出家して三位禅師とよばれたが、やはり源氏の許しを得られずに、捕らえられて鎌倉に送られることになった。途中で駿河の岡部権頭忠実に斬らせるらしい、と分かったので、六代は小烏丸を斎藤六入道阿請に与えた。阿請はそれを江馬輝経に渡した。それから江馬家重代となっていたが、十数代後の輝盛が三木白綱入道に滅ぼされたとき、輝盛の妻は小烏丸を円城寺の僧:春丁に預けていたが、やがて越中の栂尾兵衛祐邦が妻の兄にあたるので、それに贈った。
天正十年(1582)、川上小七郎忠尋は祐邦を殺して小烏丸を奪い、天正十五年(1587)それを金森可重に贈った。慶長七年(1602)、可重は本多正信を介して徳川家康に献上した。徳川家では国分寺大僧都:玄海の代に、それを国分寺に奉納したという。この説も持ち主がつぎつぎに滅びていったのに、以前のことはこんなに詳しく分かるはずがない。内容に信をおきがたいが、国分寺蔵の小烏丸のほうが、伊勢家蔵のそれより古いことだけは確かである。
国分寺蔵の小烏丸は重要文化財指定、刃長二尺五寸(約75.8cm)で、古剣書にいう小烏丸の長さとは異なる。無地のように精美な地肌に大肌まじり、刃文は細直刃。鎺もとに焼き落としがあるので、豊後行平とも見えるが、国分寺の伝来では表裏に太い棒樋があるためか、筑後三池の典太光世になっているという。柄は革で包んだ上を、琴糸で巻くことになっていたから、由緒のある形式であった。鞘は黒漆を塗り、鐺は紛失している。
遠州江馬家の説 遠江国榛原郡細江郷、現在の静岡県榛原郡榛原町細江の旧家:江馬家は、飛騨江馬家の分家とも、江馬輝盛が一敗地にまみれたとき、ここに逃げてきて土着したともいう。輝盛は討死しているので、ここまで逃げて来られるはずはないが、この江馬家にも小烏丸と称する太刀があった。しかし詳細は不明で、かつ信憑性は薄い。
成田山の説 安政(1854)のころ成田山新勝寺に、江戸麻布坂下町(港区)の柏屋重次郎が寄付した小烏丸があったという。しかし、詳細は不明である。
歌舞伎にも小烏丸の登場するものがある。「岩戸の景清」、つまり河竹黙阿弥の「難有御江戸景清」では、景清が平家の重宝:小烏丸の短刀をもって、江の島の岩屋に潜んでいることになっている。「田舎源氏」、つまり桜田治助の「源氏模様娘雛形」では、源氏の重宝として足利家の宝蔵にあったのを、東雲が盗み出す趣向になっている。「文覚」のうち、桜田治助作「大商蛭小島」でも、源氏の重宝で、中心に「大権現」と彫りつけてあったことになっている。

小烏丸造りとは、平家重宝と言われる伊勢家伝来の小烏丸のように、刃長の半ば、あるいは三分の二くらいより先が両刃の剣になった造り込みをいう。幕末から明治にかけて、小烏丸を模造したものがある。ただし、この原型はすでに正倉院御物のなかにあるが、いずれも両刃の部分は短く切先だけになっている。
小烏丸造りは、陸海軍の元帥に天皇より親授された元帥刀(元帥佩刀の略)にも用いられている。刀身は初め帝室技芸員だった月山貞一作、その後は月山貞勝、ついで堀井俊秀の小烏丸造りが用いられた。

小烏丸は刃長2尺0寸7分3厘弱(62.8cm)、反り4分弱(1.2cm)、形状は切先両刃造、庵棟、反りややつく。鍛えは、小板目、僅かに肌立ちごころに約み、地沸つく。刃文は、細直刃ほつれ、総体にうるみごころとなり、打ちのけかかり、金筋入り、小沸つく。帽子は、小丸、先掃かけ、金筋入る。彫物は、薙刀樋、鎬筋に添え樋を掻き流す。茎は、生ぶ、先栗尻、鑢目、目釘孔一。
刀装形状は、錦包糸巻太刀拵、総長93.5cm、柄・鞘、紺地錦雲龍文、柄巻・渡巻、茶糸平巻、鐔、木瓜形漆塗金覆輪付大切羽、銅地黒漆塗、目貫、金二匹獅子容彫。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺0寸7分3厘弱(62.8cm)
反り 4分弱(1.2cm)
元幅 1寸7厘強(3.25cm)
元重ね 2分3厘(cm)
茎長さ 6寸5分7厘(19.9cm)
茎反り 2分弱(0.6cm)

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