小狐丸(こぎつねまる)

  • 太刀

藤原氏伝来の名剣の名である。その作者については、三条小鍛治宗近とするが決定的であるが、宗近の子:吉家とする異説もある。小狐という語源については、菅原道真が雷となって京都の空を暴れ回ったとき、恐怖におののいた醍醐天皇は、今日の番神はどの神か、と藤原忠平に質した。すると、忠平の佩刀の柄頭に白狐が現れたので、稲荷大明神の番です、と奉答した。まもなく雷雨も去ったので、その佩刀を小狐の太刀と命名した。後世これを”雷斬り”ともよぶのは、以上の伝説によるものである。やがて藤原鎌足の影像・恵亮和尚筆の法華経とともに、近衛家の”三宝”の一になったという。

この話はあまりにも創作めいているうえ、小狐を宗近の作とすれば、宗近の生まれない以前から、小狐はあったことになるので、とうてい信用できない。信用できる話として、仁平2年(1158)8月14日、左大臣藤原頼長は、これを佩いて石清水八幡宮に参詣した。翌3年(1153)12年28日、頼長の嫡子:兼永、久寿元年(1154)11月25日、次男:帥長らの直衣始めのとき、ともにこれを帯びた。保元の乱の作戦会議のとき、藤原通憲入道信西が「家ニ伝タル小狐ト云ムク鞘ノ太刀ヲ帯」びていたという。これが真実ならば頼長家伝来のものとは同名異物、ということになる。しかし「家ニ伝タル」ものとしない説もある。信西は頼長同様、悲惨な最期をとげた。

九条兼実が文治4年(1162)正月27日、春日神社に参拝のおり佩いた小狐は、どちらの小狐か、おそらく兼実は頼長の甥にあたるから、頼長家伝来の小狐を譲り受けたのであろう。鎌倉後期には鷹司家にあったようである。その後、いつの時代か、京都:建仁寺の大統庵所蔵となっていたが、いつのころかに紛失した。

江戸中期には、越前国に存在するという噂を耳にした幕府は、享保4年(1719)2月、越前藩に対して調査を命じた。同国足羽郡阿波賀村、つまり現在の福井市阿波賀町の春日神社に、小狐の影打ちと称する太刀があった。刃長2尺2寸2分(約67.3cm)余、刃文直刃、銘「宗近」とあったが、棒鞘に「小狐丸影」と鞘書きがあった。同年4月幕府に提出し、将軍の上覧に供したのち、返却された。「影」とは影打ちのことである。それがたとえ正真であっても、小狐そのものではない。九条家に戦後まで伝来していたものは、刃長と反りは同家の記録にあるものと一致して、茎の銘も「宗近作」とあるが、明らかに新刀と見えるものという。

大和の石上神宮の宝庫に、方五尺(約151.5cm)ほどの櫃がある。神符で封じられ開くことはできないが、なかに小狐または小狐丸という刀が納められていた。弘化4年(1847)の暮れ、大和の和助・佐蔵らの4人は結託して垂仁天皇陵を盗掘した後、岩上神宮の祠人を抱き込み、宝庫にあった小狐丸を盗み出した。大坂の一味を通じてそれを准三后・鷹司政通に売り込んだ。政通は、持ち込まれた小狐丸が尋常の剣でないことに気づいたので、経緯について調査させたところ、石上神宮の盗難品と判明して、和助らの一味は、安政5年(1858)、磔刑に処せられた。

この刀は2尺6寸1分(約79.1cm)、反り8分3厘(約2.5cm)、地鉄は板目肌、刃文は小丁字乱れであった。ただし、焼き直し。中心はうぶ、目釘孔三個。「義憲作」と在銘。古備前義憲の作という。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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