乱藤四郎(みだれとうしろう)

 

  • 短刀 銘 吉光 (名物:乱藤四郎)
  • 長さ 7寸4分(22.6cm)
  • 反り ごく僅か

 

 

乱藤四郎は粟田口吉光作の短刀で、「享保名物帳」に所載する。初め、”細川の乱れ藤四郎”とよんでいたのは、もと管領:細川家伝来だったからであろう。それを足利将軍家に献上してあった。永禄12年(1569)10月、将軍:足利義昭が本圀寺において、三好一族に囲まれた時、江州朽木(滋賀県高島郡朽木村)の領主:朽木元綱が、急遽かけつけ急を救った。その功を称して、これを元綱に与えた。

「享保名物帳」では、武州忍(埼玉県行田市)の城主:阿部豊後守正喬所蔵となっている。阿部家に入った事情は不明である。昭和7年ごろ、当麻国行(国宝)とともに、阿部家を出た。
武蔵国忍藩阿部家は、慶長16年、阿部忠秋が下野国壬生より五万石で入封した。忠秋は慶長15年、9歳のとき家光付となり、寛永3年一万石で諸侯に列した。寛永10年、松平信綱らと幕府老中に任ぜられた。晩年には八万石に加増された。その後忍三代正武のとき十万石となった。現在、行田の主産業として全国の八割を占める足袋製造は、正徳年間(1711~16)、藩主:正喬が藩士の内職として奨励したのが始まりという。九代つづいた阿部氏は、文政6年正権のときが陸奥白河へうつされた。
「昔は細川殿之乱藤四郎という、出来替る故異名也。元禄十四(年)の極(め)」とあり、名称の由来は刃文の乱れからとって「乱藤四郎」となった。

光徳刀絵図には「小乱藤四郎(こみたれ)」として記載がある。
名物帳には「阿部豊後守殿 乱(藤四郎) 銘有 長さ七寸四分半 代金六十枚
昔は細川殿之乱藤四郎という、出来替る故異名也。元禄十四(年)の極(め)。」

刃長7寸4分5厘(約22.6cm)、平造り、真の棟となる。地鉄は小杢目肌詰まり、地沸つく。刃文は互の目乱れに、鋩子小丸となり、返りも乱れて、鎺もと近くまで焼き下げる。中心はうぶで、「吉光」と二字銘がある。元禄14年の六十枚の折紙が付く。

「鑑刀日々抄」 本間薫山先生著
十二月二十三日(昭和四十五年)
短刀 銘 吉光(名物乱藤四郎)
刃長七・四寸半、孔一ヶ。細身三つ棟、わずかに反る。鍛板目、上半流れ柾交じり、表殊に目立ち、地景入り、地沸つく。刃文匂深く、沸よくつき、小乱れに足よく入り、砂流し・金筋かかり、帽子丸く返り、長く腰に至る。上記のごとく作風がすこぶる異様である。しかし、享保名物帳ばかりでなく、それより前の光悦名物記にも揚げられているものであるので、なお慎重に鑑すべきである。
なお、光忠六十枚の折紙が現存しており、この代付は名物帳にも同様に記載されている。そして同帳には当時の所持者が阿部豊後守とあるが、私の初見は、昭和六年に細川利文子爵邸に於てであり、子爵談によれば、近年、松平頼平子爵を介して朽木男爵家より譲り受けたとのことであった。
(会員某氏より先日来預りのものを審査する。)

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 7寸4分(22.5cm)
反り ごく僅か
元幅 6分7厘(2.0cm)
茎長さ 3分1厘(9.5cm)
茎反り わずか(0.2cm)

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