鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)

 

  • 脇指 銘 吉光 (名物:鯰尾藤四郎)
  • 徳川美術館蔵
  • 長さ 1尺2寸7分(38.5cm)
  • 反り 2分(0.6cm)

 

 

鯰尾藤四郎は鯰藤四郎ともいい粟田口吉光作の脇指で、「享保名物帳」消失の部に所載する。初め、織田信雄が所持し、天正12年(1584)小牧長久手の戦いのさい、織田信雄の重臣:岡田長門守重孝ら三将が、豊臣秀吉に内通したとして、織田信雄はこれを土方勘兵衛雄久に与え、岡田重孝を斬らせた。土方雄久はのちに秀吉に仕えたので、これを豊臣秀吉に献上したのであろう。豊臣秀頼が差料にしており、光徳刀絵図には「御さし用、秀頼様相口拵、両度寿斎仕候」とあり、埋忠寿斎に合い口拵え二度も作らせたことがわかる。大坂落城のさい消失したが、徳川家康は越前康継に焼き直させた。これは記録にもみられ、駿府政治録には、慶長20年6月16日の項に、「今度大坂兵火故、名物刀脇指悉焼け、其の後尋出之、今度召鍛冶下坂、再鍛之試合焼焠給」とある。そして、家康の遺産「駿府御分物」として、尾張徳川家初代藩主:徳川義直が受け継いで、爾来、尾州徳川家に伝来し、現在も徳川美術館が所蔵している。黒呂色塗鞘脇指拵が付属する。

刃長は、初め1尺2寸9分(約39.1cm)、のち光山押形には1尺2寸8分(約38.8cm)、焼き直した現在は1尺2寸7分(約38.5cm)となっている。薙刀直しで、上は菖蒲造り、下には薙刀樋と添え樋があり、真の棟となる。地鉄は板目肌詰まり、刃文は匂い出来、直刃調に小乱れ・小足まじる。鋩子は小丸となる。中心は磨り上げ、中心先を一文字に切る。目釘孔は2個。指し表に「吉光」と二字銘が残る。黒呂色塗鞘脇指拵が付属する。

名物帳には「御物 鯰尾(藤四郎) 裏に銘有 長さ壱尺弐寸八分 無代
薙刀直し鵜首造り、鯰尾に似たる故名付(く)。長刀樋添樋有之。打のけ多し。大坂の御物也。」

尾張徳川家における記録などを列記すると、
・豊臣家御腰物帳 御太刀御腰物御脇指太閤様御代ヨリ有之分帳 一之箱(慶長6年)
一 なます尾藤四郎
・駿府御分物刀剣元帳 上々御腰物帳(元和2年) 御脇指
一 なます尾藤四郎
・御殿守ニ有之 御腰物御脇指帳(慶安4年) 御脇指
一 なます尾作 吉光 白鞘斗有 大坂焼物
・鞘書
「仁弐ノ四(仁2-4)」 名物鯰尾吉光御中脇指 銘有長壱尺弐寸八分

尾張徳川家の蔵刀は尾張徳川家御腰物帳に記載されている。白鞘には蔵番が記されており、儒教における孔子が提唱した五常「仁義礼智信」の一字と数字が鞘書きされるのが通例となる。「仁一ノ十二」「仁二ノ八」などとあらわし、仁義礼智信の順序と数字が小さいほど重要性が高くなる。一期一振は「仁一ノ二十六(仁1-26)」、鯰尾藤四郎は「仁弐ノ四(仁2-4)」となっている。
主要なものでは、
「仁壱ノ壱(仁1-1)」太刀 来国俊(国宝)
「仁壱ノ拾参(仁1-13)」刀 池田正宗(重文)
「仁一ノ二十六(仁1-26)」太刀 一期一振
「仁一ノ二十九(仁1-29)」太刀 光忠(国宝)
「仁壱ノ四拾(仁1-40)」太刀 国宗(国宝)
「仁一ノ四十七(仁1-47)」太刀 正恒(国宝)
「仁一ノ六十壱(仁1-60)」太刀 津田遠江長光(国宝)
「仁一ノ六十五(仁1-65)」刀 南泉一文字(重文)
「仁壱ノ七拾九(仁1-79)」刀 本作長義(重文)
「仁弐ノ四(仁2-4)」脇指 鯰尾藤四郎
「仁弐ノ拾弐(仁2-12)」短刀 無銘藤四郎
「仁二ノ二十(仁2-20)」脇指 物吉貞宗(重文)
「仁弐ノ弐拾壱(仁2-21)」短刀 不動正宗(重文)
「仁二ノ弐拾六(仁2-26)」短刀 包丁藤四郎(重美)
「仁二ノ参拾七(仁2-37)」短刀 後藤藤四郎(国宝)

鯰尾藤四郎に附帯する蝋色塗脇指拵は、
総長:66.7cm
秋草図赤銅鐔 銘 顕乗作 光美(花押) 縦6.8cm 横6.5cm
獅子図小刀柄 無銘 徳乗 長9.7cm
小刀 銘 埋忠 身長12.0cm
鯰尾藤四郎の蝋色塗脇指拵は大小拵としての仕様で製作されており、鯰尾藤四郎が大小の脇指となる。大の蝋色塗打刀拵も鐔や三所物といった装剣具、意匠や仕立てが全く同手のもので、中身は太刀 銘 国俊とある。尾張徳川家の蔵刀には数振りの国俊があると思われるが、いずれの国俊であろうか。

越前康継は大坂城落城のさいに、焼失した多くの名物刀剣を焼き直ししている。その折に、多くの名物刀剣を模作して忠実な写しを1振、或いは複数振を製作している。鯰尾藤四郎も写しの1振が現存し、刃長:1尺2寸7分、反り:2分強、元幅:9分4厘、茎長:3寸5分半、茎反:僅かとなる。銘文は表に「吉光なまつをなんはんかね(吉光 鯰尾 南蛮鉄-よしみつ なまずお なんばんがね)」裏に「越前国康継 本多飛騨守所持内」とある。南蛮鉄とは舶来の鉄で刀剣を鍛える際に和鉄に交ぜて鍛えた。
所持銘にある本多飛騨守成重は越前康継の最も有力な支援者であった。慶長12年、松平秀康(結城秀康:越前福井藩:松平家初代)が34歳で、死去してしまったため、長子:忠直が12歳で越前福井藩松平家七十五万石をついだ。慶長17年、将軍秀忠は、本多成重を越前丸岡藩四万石に封じ、忠直の臣として国政を摂せしめた。父:本多重次の名文「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙でも知られる。越前康継は慶長10~12年頃に徳川将軍家の抱え工となっており、本多成重との関係もこの頃からといわれている。

鯰尾造りとは、刀の剣形で、切先が鯰の尾に似ているところから命名された。これを菖蒲造りと同じとする説がある。名物の鯰尾藤四郎は、まさしく切先は菖蒲造りになっているが、これは薙刀直しである。しかし、筑前の左文字には鯰尾作りがある、と古剣書にあるから、これは薙刀直しではない。または、切先が薙刀と同じ形になったもの、薙刀の切先が両刃になったような形のものをいう。

鯰尾藤四郎は薙刀直しとの説もあるが、元来が薙刀であれば通常は佩表に銘を切り(まれに佩裏に銘を切ったものもあるが)、銘の位置ももっと下になり、また、鎬筋も茎まで通っていなければならない。鯰尾藤四郎は佩裏に銘があり、茎には鎬筋はなく平になっている。現状では、茎尻は少し摘んで切となっているが、押形では生ぶに近い栗尻のものもある。再刃される前の「光徳刀絵図」では刃文をみると帽子が返っているが、薙刀直しであれば切先側から刀身を削ぐので帽子は焼詰めか殆ど返りがないものとなる。鯰尾造りに類似する菖蒲造りや冠落とし造りの作例は畿内の山城国・大和国の鍛冶には比較的に多くみられる。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

 

 

(法量)
長さ 長さ 1尺2寸7分(38.5cm)
反り 反り 2分(0.6cm)
元幅 元幅 1寸(3cm)
元重ね 元重ね 2分5厘(0.75cm)
茎長さ 茎長さ 3寸2分(9.7cm)