波遊ぎ兼光(なみおよぎかねみつ)

  • 指定:重要美術品
  • 刀 (金象嵌銘) 羽柴岡山中納言秀詮所持之 波およき末代之剣兼光也 (名物:波遊)
  • 長さ 2尺1寸4分半(64.8cm)
  • 反り 2分6厘(0.8cm)

 

波遊ぎ兼光は備前長船兼光作の刀で「享保名物帳」に所載する。勢州桑名の渡し場で、干潮のため舟が岸まで着かない。お客が裸になり、岸に向かっている時、お客同士で喧嘩になった。一人が刀で斬られたが、泳いでいって、岸に着いたところで、体が二つになったので、「波遊」という異名がついたという。のち豊臣秀次の愛蔵となった。文禄4年(1595)7月、高野山で切腹したときも、雀部重政が波遊ぎ兼光をもって秀次の介錯をした。
豊臣秀吉がそれを没収していたが、慶長2年(1597)、朝鮮の再役に出陣する小早川秀秋に、波遊ぎ兼光を与えた。秀秋は蔚山(ウルサン)城を囲んだ民兵を、自ら波遊ぎ兼光の刀を振って13人もの敵を斬った。秀秋は慶長5年(1600)、関ヶ原役で寝返りを打った功により備前岡山城主になった。そして、波遊ぎ兼光を打ち刀にするため磨り上げさせ、中心の差し表に、「波およき末代之剣兼光也」、裏に「羽柴岡山中納言秀詮所持之」、と金象嵌を入れさせた。秀詮は秀秋の晩年における改名である。秀秋が慶長7年(1602)、21歳で早世するが、嗣子がなかったので、小早川家は断絶した。
波遊ぎ兼光は徳川家康が没収したのであろう、六男の松平忠輝に与えた。忠輝が元和2年(1616)、改易となり、勢州朝熊に追放された時も、この波遊ぎ兼光だけは肌身に置くことを許された。忠輝は晩年になって、多年奉仕した女中に賞与をやりたいが、金がない。それで、その女中に波遊ぎ兼光を持たせて、松平大和守のもとへ行かせて金子に換える売却方を依頼させることにした。
松平大和守は早速に邸に本阿弥家の者をよんで、刀の目利きをさせたところ、これは兼光ではない。信国の作で、代金は十枚ぐらい、と評価した。そして、その刀に延宝4年(1676)極月(12月)3日、同じ本阿弥家で五十枚の折紙を出している。
それを筑後柳川城主:立花家で入手し、以後立花家に伝来した。「享保名物帳」にも「立花飛騨守殿」、として収録されている。立花家の「神剣宝刀帳」の記述によれば、もと上杉家にあって、「小豆兼光」の名で重宝とされていた。上杉景勝のとき、小早川秀秋が所望して譲りうけ「波遊」と改名した。その後、年数をへて払い物になったので、立花家で購入したという。
しかし、上杉家の重宝は、伝承によれば「小豆長光」であって、「小豆兼光」ではなかった。小豆長光は下野国黒羽城主:大関家に伝来し、重要文化財に指定されている。なお、小豆長光も切れ味の凄さを示すものである。
秀秋が秀詮と改銘したのは、当時の古文書の署名から見て、慶長7年(1602)正月ごろからである。そして同年10月18日に早くも死去、お家断絶となっている。したがって「波遊」と改名してから、年数をへて払い物になったことにはならない。本阿弥光瑳は光悦の子であるが、松平上総介忠輝のもとに、波遊ぎ兼光があったとき拝見している。忠輝が上総介と称したのは、慶長7年(1602)から同10年(1605)の間のことである。すると、そのころはまだ立花家に入っていなかったわけで、小早川家から直接買ったことにもならない。
享保年間に、八代将軍:徳川吉宗が本阿弥家から立花家にある波遊ぎ兼光のことを聞き知った。本阿弥家を通じて吉宗が波遊ぎ兼光を観ることを求めたが、立花家では刀剣好きの吉宗の目にいれれば献上を求められれば断ることは不可能になることは容易に予測されたので拒んだという。
波遊ぎ兼光は、昭和8年7月25日、重要美術品認定。認定時の所有者は福岡・立花鑑徳氏(15代当主)昭和29年に立花家の門を出ているようである。

名物帳には、「立花飛騨守殿 波遊(兼光) 磨上 長さ弐尺壱寸四分半 代千貫
川端にて迯行者を切(る)。をよぎ向の岸にて二つに成故名付(く)。表二筋樋、梵字、中心先に棒樋、裏下り龍、下に剣、中心表に波およき末代之剣兼光也、裏に羽柴岡山中納言秀詮所持之と象眼有、延宝4年究(め)。」

立花家の御腰物台帳の「御腰物由来覚」に波遊ぎ兼光は記載がある。
一 波遊兼光 金ニ而入銘、波遊末代之剣兼光也 羽柴岡山中納言秀信所持ト有り
弐尺一寸四分半(約65.0cm) 御刀 折紙 金五拾枚
右者往古上杉謙信秘蔵之道具由、上杉家にては、小豆兼光与申重宝ニ而有之候処、景勝時代、羽柴岡山中納言(小早川秀秋)、依所望彼家ニ渡リ、波遊与改名有之候由。
其後、年数経、払物ニ而被為 召候由。享保年中、有徳院様(八代将軍吉宗)御代、上杉家兼光御剣之処、此方様御家に有之候段、本阿弥家より達 上聞候処、可被遊 上覧之由、沙汰有之段、本阿弥家より為御知申上候ニ付、早速御研等被仰付其御用意有之候得共、入 上覧不申候而相済申候。

形状は、鎬造、大磨上で、反りは浅く、身幅広く、大鋒。鍛えは、小板目つみ、地景入り、地沸細かにつき、淡く乱れ映りたつ。刃文は、大のたれ調に、互の目交じり、匂深く、小沸つく。帽子は、乱れ込んで、先尖る。彫物は、表に二筋樋、梵字、裏に下り龍、その下に素剣を彫る。茎は、大磨上、目釘孔一、「羽柴岡山中納言秀詮所持之 波およき末代之剣兼光也」と金象嵌銘がある。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

(法量)
長さ 2尺1寸4分半(64.8cm)
反り 2分6厘(0.8cm)
元幅 1寸0分2厘(3.1cm)
先幅 2寸5分4厘(7.7cm)
鋒長さ 2寸5分4厘(7.7cm)

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