日本号(にほんごう)

  • 大身槍 無銘 金房政次 (号:日本号)
  • 福岡市博物館蔵
  • 長さ 2尺6寸1分5厘(79cm)
  • 反り なし

 

 

日本号は大和国金房政次作と伝える大身槍の異称で、母里太兵衛が所持した。福島正則に呑み勝って得たので「呑取の槍」ともいわれ、、蜻蛉切・御手杵とともに「天下三槍」にかぞえられる。
日本号の由来については、日本号はもと禁裏にあり、正親町天皇から将軍:義昭が拝領、それから織田信長、豊臣秀吉の所有に帰した。天正18年(1590)、小田原の役のさい、福島正則の韮山城攻めの功を称して、秀吉から福島正則が拝領した。
黒田家の家来に母里太兵衛(ぼりたへえ)という豪傑があって、人傑であるばかりでなく、酒豪でもあった。名を友信といい、黒田如水・長政に仕えて先手の大将をつとめ、朝鮮役には偉功をたてた。のち、黒田家重臣の一人となり、黒田二十四騎にかぞえられ、筑前鷹取城一万八千石を拝領した。
江戸城の日比谷の石垣が崩れた折、黒田家から選ばれて修理工事の宰領を勤め、非常な困難に打克って、しかも短期間に仕上げたことで幕府から褒賞された。その書類の宛名が「毛利(モウリ)」となっていたところから、これを尊重して「モリタヘエ」と称することにしたが、黒田藩では「ボリ」であり、今日でも「母里(ぼり)」と呼んでいる。豪傑であるばかりでなく、各藩の才能を持った人物であったが、それにも劣らず酒豪として聞こえいた。
母里太兵衛が、ある時、君命を帯びて福島正則を訪ねた。正則は、太兵衛に酒を強要した。太兵衛は、出発前に主君の戒めを思い固辞したが、言い出したら後に退かない正則だけに、遂に「賭け」になってしまった。その「賭け」に使われたのが、正則愛蔵の「日本号」であった。その時の酒の量がどれほどであったか知る術もないが、太兵衛が呑み勝って、日本号を担いで意気揚々と引き揚げたという。ここから「呑取りの槍」の名が起こった。場所については、正則の居城広島ともいわれるが確証はなく、江戸屋敷ともいう。福島正則は日本号を呑取られたとき、家来を遣って太兵衛のあとを尾けさせた。帰路道に酔い潰れた太兵衛から槍を奪い返すことを期待してとの話もあるが、創作といわれている。
太兵衛が呑取った「日本号」は、その後、後藤又兵衛基次の持ち物になった。朝鮮役の折、虎に襲われて危地にあった太兵衛を、又兵衛が助けて、その礼に分捕ったとの話があるが、これは時間的に合わないので、何か他の理由があったのだという。のちに又兵衛が主君:黒田長政と喧嘩別れをして筑前を退去するとき、日本号はやはり筑前に置くべきだとして、母里家へ返して、以来同家に襲蔵されてきたという。
大正年間になって、母里家の事情で、日本号がその家を離れたのを、炭鉱経営者の安川敬一郎男爵と頭山満翁が買戻し、筑前に置いておくべきものとして黒田家に献上した。黒田家では、この返礼に、同家の什器中から、狩野常信の三幅対を送った。同家の什器台帳にその記載があった。以後、日本号は黒田家の什器の一つになり、「日本号」「呑取りの槍」「黒田節の槍」の名のほかに、「黒田の槍」の名も生まれてきた。

穂の長さ2尺6寸1分5厘(79cm)、茎の長さ2尺6分5厘(62.5cm)、平三角の大身槍で、鍛えは板目が流れて柾に近く、ほつれ気味に直刃がよく通っており、平に掻かれた2尺2寸(66.6cm)の樋の中に、1尺8分5厘(32.8cm)の真の倶利伽羅が浮彫りされて見事である。目釘孔二つ、無銘で作者は分からないが、室町時代後期の大和国の金房あたりとの説がある。これほどの槍であるが、武功の逸話は全くない。しかし、腰元8寸5分(25.8cm)の辺りに切疵らしいものが二ヶ所あって、実戦に使われたとの推測も不可能ではない。
拵は、柄も鞘も、大粒の青貝螺鈿が美しく、柄の長さ7尺9寸6分5厘(241.3cm)、鞘の長さ2尺8寸9分(87.5cm)となる。鞘に母里家の枡形紋(二つ)の螺鈿がある。金具は、石突が鉄であるほかは、赤銅地金小縁に金色絵の桐と沢瀉紋が据えられ、柄と共に時代色がよく、まことに好もしいものである。穂の目方は243匁4分(912.7グラム)となる。

戦後に拡まった黒田節は、藩士の高井知定が黒田武士の心意気を称賛してつくった「筑前今様」の歌詞に一つである。
「酒は呑め呑め 呑むならば 日の本一のこの槍を 呑取るほどに 呑むならば これぞ まことの黒田武士」
「日の本一のこの槍」と詠われたので、日本一の槍という意味で、一般に「日本号」と呼ばれるようになった。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺6寸1分5厘(79cm)
茎長さ 2尺6分5厘(62.5cm)
茎反り なし
重量 243匁4分(912.7グラム)