燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)

  • 刀 無銘 備前光忠 (号:燭台切光忠)
  • 徳川ミュージアム蔵
  • 長さ 2尺2寸3厘(66.75cm)
  • 反り 5分(1.5cm)

 

 

燭台切光忠は備前光忠作の刀の異名で、慶長元年(1596)、伏見築城の折、豊臣秀吉は伊達政宗が大坂との間のお召し船を献上した功を賞して、自らの備前光忠の刀を手づから与えたという。翌日なら、政宗が早速に光忠を帯びて、普請場に来たところ、秀吉が小姓たちに、「昨日、政宗に刀を盗まれた。取り返せ」と冗談をいった。小姓たちが刀を取り返そうとすると、政宗が逃げ出した。十余間逃げたところで、秀吉が「許す。よろしい」と止めたので、そのまま政宗のものになった。
その後、政宗が怒って小姓を成敗しようとしたとき、唐金の燭台の後ろに隠れたので、燭台もろとも光忠の刀で切り倒した。それで「燭台切り」の異名がついた。燭台とは、ろうそくを立てるための台で、針状のろうそく立てと蝋を受ける皿、細い脚で構成される。徳川家康の十一男で常陸国水戸藩初代藩主:水戸頼房が政宗の邸を訪ねたとき、その由来を聞いて、所望したが、承知しなかったので、無理に持って帰ってしまった。以後、水戸徳川家に伝来していたが、大正12年の関東大震災で焼失した。水戸徳川家の蔵刀を編纂した武庫刀纂(ぶことうさん)に所載し、長さ2尺2寸3厘(66.75cm)、反り5分(1.5cm)、鎬造、庵棟、表裏に棒樋を掻き通し、大磨上、浅い栗尻、目釘孔2個、無銘となる。金鎺が溶解した痕跡がみとめられ、因みに金の融点は1064℃で、鉄は1535℃・銀は961.8°C・銅は1084.5℃となっている。鎺は銀や銅が溶解した痕跡がないので、銀や銅の土台に金を着せたものではなく、金無垢であったようである。銀の錆は黒色で、銅の錆は緑青(ろくしょう)といって緑色がかるが、金の錆は赤みを帯びる。

武庫刀纂(全23巻)は水戸藩8代藩主:徳川斉脩が文政6年(1823)に水戸徳川家伝来の刀剣を調べ、刀匠ごとに編纂した書で、詳細な写生図と寸法や名の由来、どのようにして水戸徳川家に伝来したかが書かれている。全23巻のうち刀剣が15巻で附録の8巻は小道具類を所載している。刀剣は水戸徳川家の名刀408振の見事な押形があり、刀剣の外形や茎、彫物などがかなり精緻に記録されている。茎は在銘のものは、その部分のみを敢えて水拓を採っている。刃文は、毛筆を用いて綿密に描写されているようである。古押形のなかでもここまで精密なものは例がなく、さすがに大日本史を編纂した水戸徳川家の刀剣台帳と驚嘆せざるをえない。
序文には小納戸役の鈴木重宣が書いており、次の人々が調整したものである。
「・・・公命画工 森田惟章、山内栄貞、河合正将悉図其形形状伊藤友寿掌其事大橋順正、市川明利、高林義正、生駒貞幹各以其職事副之図成為冊凡十五巻名日武庫刀纂附録八巻名刀総計四百零八枚画工精有司勤豈易纂耶宣神神秘以此禁方云
文政六歳在昭陽協治暮春中浣 小納戸役 鈴木重宣 奉命序・・・」
武庫刀纂に燭台切光忠は全23巻のうち巻6に下記の通り刀絵図とともに記載がある。
「光忠 長二尺二寸三分 鎺元九分九厘 横手下七分三厘 厚二分二厘 区五分
傳云仙台侯政宗近侍之臣有罪隠于褐銅燈架之陰政宗乃斬之燈架倶落故名之曰燭台斫燭台之燈架之俗称也
義公嘗臨于政宗第政宗持此刀語其由終乃置之坐右 公将帰請是刀政宗愛之不與公乃強持之去云
(伝承によれば仙台藩主の伊達政宗の近臣の一人が罪を犯し燭台の陰に隠れていたところ、政宗がこれを燭台もろとも斬り倒した。そこからこの刀を「燭台切」と呼ぶようになった。光圀が幼年の頃政宗の邸宅にて政宗から刀を身近に置きながら「燭台切」の由来を語り聞かされた。光圀はこの刀を欲し、政宗はお気に入りの品だからと一度は断るも、最後は刀をいただいて帰ったという。)」
端亭漫録巻五十三(雨宮端亭) 竹甫雑記の中小石川御屋敷御道具之内書抜には
「一、光忠 長二尺二寸、正宗殿(伊達政宗)より来る」
高瀬羽皐翁は、その著書「英雄と佩刀」(高瀬羽皐:著 大正元年刊)のなかで「この刀今以て水戸徳川候の宝蔵にある二三年前夏のお手入の時拝見したが言語に絶した名刀である」と記されている。燭台切光忠をご覧になったのは被災する前の明治42~43年と推察される。多くの名刀をご覧になられた高瀬羽皐翁が「言語に絶した名刀」とまで評された燭台切光忠とは、どれ程に素晴らしい刀であったのか想像が及ばない。
燭台切光忠は武庫刀纂の押形をみる限りでは、地には鮮明なる乱れ映りがたち、刃文は、丁字乱れを主調に蛙子丁子を交え、蕨手丁字をみせ、帽子は、浅く小さくのたれて、焼詰め風となる。現存するものなかでは生駒光忠(国宝)に通じる作域であったのであろうか。
「土屋押形」には水戸徳川家の蔵刀もいくつか見ることができる。同家の名物:池田光忠も掲載されているものの、残念ながら燭台切光忠は記載されていない。

伊達家の蔵刀目録である「剣槍秘録(けんそうひろく)」全四巻のうち巻一に光忠の刀が記載されている。
剣槍秘録 巻一 二
「一 光忠御刀 長(記載なし) 銘(記載なし)
御記録云慶長元年月日不知 木幡山御普請之節
太閤之御召舟を献らる仍之御拝領也 御腰物方無御伝光忠御太刀金拾五枚 忠山様御七夜御祝儀之節享保三年六月五日従 獅山様泉田木工御使者ニ而被進之蓋此御太刀なるへし」
慶長元年、木幡山(木幡山伏見城)を普請のとき、秀吉に舟を献じ光忠の刀を拝領した旨の記述は燭台切光忠の来歴の内容と一致している。政宗が死去する寛永13年(1636)以前、一説に、寛永元年(1624)には燭台切光忠は伊達家を去っており、剣槍秘録が編集された寛政元年(1789)より150年以上前ということになる。剣槍秘録では「長」(長さ)・「銘」(銘文)ともに記載がなく不明であり、記述の内容も殆どないのは、寛政元年(1789)の時点で光忠の刀が実際に無かったのはもちろん、150年以上も前に伊達家を去っている為と思われる。剣槍秘録でも、古い刀剣台帳よりの少ない資料に限られたのか、「御腰物方無御伝」とあるように御腰物方にも詳しい内容が伝わっておらず、享保3年(1718)、伊達吉村(5代)が伊達宗村(6代)の誕生の際に贈った別の光忠の刀を「蓋此御太刀なるへし(思うに、この御太刀だろう)」と推測しているが、これは燭台切光忠と別の光忠の刀を取り違えている。また、代付けについては十五枚となっているが、これは燭台切光忠のものとしては評価が低すぎるので別の光忠の刀のものであろう。享保頃は本阿弥光忠(13代)が本阿弥家当主を務めている。本阿弥光忠が発行した折紙に光忠極めの無銘の刀に代金子百枚のものが遺されているので、燭台切光忠であれば百枚かそれに近い代付けの折紙でなければならない。
「剣槍秘録」巻一は、伊達政宗(初代藩主・17代当主)から斉村(8代藩主・24代当主)まで、太閤秀吉や徳川家康から家重までの歴代将軍家、及び 禁裏から拝領したもので、したがって道具の内容も優れたものが多い。刀の品格とともに、初代藩主:政宗が太閤秀吉や初代将軍:家康から直接に拝領したといった政治的な重要度も高いものほど前に記されている。巻一の一は太閤秀吉より政宗が拝領した鎺国行となっており、巻一の二はそれに次ぐものとなる。巻一の三は秀吉の遺物として政宗に贈られた鎬藤四郎となるので、巻一の一、二、三までは政宗と秀吉ゆかりのもので占められている。また、藩主がその世子に贈る刀は、徳川将軍家における本庄正宗のように最も重要度が高くなる。燭台切光忠は政宗が太閤秀吉より手ずから拝領した重宝として、伊達家から水戸徳川家へ移ったのちも、来歴のみが伊達家の剣槍秘録に記されていた可能性がある。

「豊臣家御腰物帳」の「御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ヨリ有之分之帳」(慶長6年)
四之箱 一 光忠 刀 慶長十六年卯月三日 政宗ニ被下候
「御太刀御腰物御脇指方々え被遣之帳 慶長五年ヨリ同拾八年十二月迄」(慶長18年)
四之箱内 一 光忠 御刀 慶長六年十月 政宗ニ被下候
豊臣家の蔵刀を納めた七つの刀箱のうち四之箱に豊臣家より政宗に与えられた光忠の刀がある。慶長6年(1601)に贈られたと記されているが、秀吉は慶長3年(1598)9月18日に死去していることや、古伝の慶長元年(1596)とは時間的に乖離する。これらは政宗に与えたのは秀吉ではなく秀頼であり、燭台切とは別の光忠の刀であろう。

長船光忠は、鎌倉時代中期頃に備前長船に在住し、刀剣史上最も大きな流派である長船派を築いた事実上の始祖で、技倆も卓越し、古来その名高い。一門には長光をはじめ、真長・景光などの多くの良工を輩出した。光忠の最初期作とおもわれるものには古備前風の古雅な作域を示す太刀が僅かに遺されている。古備前光忠は長船光忠同人でその初期作の可能性が高いといわれている。光忠の作品の多くは大磨上無銘の極め物で、豪壮な姿に地肌がよく錬れて美しく、地沸が微塵につき、一見京物を想わせるものがあり、刃文は華やかな丁子主調の乱れを焼いたものが多いが、一方で在銘の太刀は、姿が比較的尋常で、刃文の出来も無銘に比して穏健なる出来口のものもある。
「焼身(やけみ)」と「再刃(さいは)」については、「焼身」は火に焼けた刀のことで、地肌が荒れ、鍛え目がはっきり現れる。火肌といって、点々と色変わり斑点、または飛び焼きが見られ、刃先にも鍛え肌が現れる。刃文は摂氏726度の変態点以上に熱せられたら、焼失するが、それ以下ならば、沸えが熔けたように、刃中に広がり、匂いは消えてしまう。鉄が硬度を失っているので曲がりやすく、刃先も柔らかくなり、堅い物は切れなくなる。「再刃」は刀の刃を焼き直すこと、または焼き直した刀のことで、火災などで焼け、刃文の消えたものを、後世の刀工が焼き直しを行う。刃文の沸え、匂いが若くみえ、かつ力がないし、刃文の形も元の刀工の刃文と違うほか、反りがつき過ぎたり、地肌が荒れたりするが、実用には差し支えがない。また「焼刃(やきば)」は刀の刃文、焼入れなどを意味する。
燭台切光忠は前者の「焼身」となる。火災のさいは武器庫内に保管されていたようであるが、炎や火災の種類によるのか、全体が焼けて黒くなっているものの刀身の表面は思いのほか綺麗であり、辛くも往事の刀姿を留めている。長さ2尺2寸3厘(66.75cm)、反り5分(1.5cm)、鎬造、庵棟、身幅・重ね尋常に、元先の幅差少なく、反り浅くつき、腰元辺で反り顕著となり、鋒は中鋒つまりごころの猪首風に結び、表裏に棒樋を掻き通し、光忠独特の気品溢れる姿を夢想させる。光忠を磨り上げて打刀姿に直したものにみられる特有の雰囲気を燭台切光忠も備えている。燭台切光忠の刀身の反り具合は腰元から茎にかけて、全体の緩やかな反りに比べて一際に強くなっている。これは、元来の生ぶの太刀姿における、腰反りの上部に相当すると思われる。大磨上なので腰元の踏張りも抜けており、生ぶ孔も残っておらず、第一目釘孔から茎尻までの距離、腰反りの名残などから勘案すれば磨上げは3寸強(約10cm)以上であろうか。鎌倉時代中期の反りの高い太刀なので幾分の誤差はあるものの、燭台切光忠の生ぶの姿は2尺5寸~2尺6寸(約75~78cm)の腰反りがついたものであったと推察される。大磨上、無銘、目釘孔2ヶ、茎尻は天正磨上げでごく浅い栗尻、鑢目は浅い勝手下がりとなり、掟通りの丁寧な磨上で如何にも古名刀の茎となっている。茎には溶解した金鎺が、あたかも黄金の真砂を敷いたようで美しい。焼失後も徳川ミュージアム(水戸徳川家)では厳重に保管され、その資料的・歴史的な価値は高い。

燭台切光忠を刀剣書にみられる用語を使用して表現することを試みた。法量・形状・鍛・刃文・帽子・彫物・茎の順となる。平台に展示された状態での視認、武庫刀纂の押形からの情報を元とする。括弧内は現存する光忠の太刀の情報から推定となる。
法量:長さ2尺2寸3厘(66.75cm)、反り5分(1.5cm)、元幅 9分9厘(3.0cm) 先幅 7分3厘(2.2cm) 元重ね 2分2厘(6.7cm)
形状:鎬造、庵棟、身幅・重ね尋常に、元先の幅差少なく、反り浅くつき、腰元辺で反り顕著となり、鋒は中鋒つまりごころの猪首風に結ぶ。
鍛:(板目肌よくつみ、地沸よくつき、)乱れ映り鮮明にたつ。
刃文:丁字乱れを主調に蛙子・互の目・尖りごころの刃など交じり、蕨手丁字をみせ、足・葉入り、(匂深く、小沸つき、)金筋入り、砂流しかかり、(匂口明るく冴える。)
帽子:浅く小さくのたれて、焼詰め風となる。
彫物:表裏に棒樋を掻き通す。
茎:大磨上、先浅い栗尻、無銘、鑢目浅い勝手下がり、目釘孔二、無銘。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

(法量)
長さ 2尺2寸3厘(66.75cm)
反り 5分(1.5cm)
元幅 9分9厘(3.0cm)
先幅 7分3厘(2.2cm)
元重ね 2分2厘(6.7cm)

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