ソハヤノツルキ(そはやのつるぎ)

  • 指定:重要文化財
  • 太刀 (切付銘) 妙純伝持 ソハヤノツルキ ウツスナリ
    (無銘 光世作)
  • 久能山東照宮蔵
  • 長さ 2尺2寸3分5(67.7cm)
  • 反り 8分5厘(2.6cm)

 

ソハヤノツルキは初代将軍徳川家康の指料で、三池の作と伝えて久能山東照宮第一の重宝として今日に伝えている。「三池御腰物の事」によると、家康は他界する二日前の4月15日に側用人都筑久太夫を召し出し「此御腰物を子孫長久の守神」とする旨を申されたとあり、また、「御在世久能御道具帳」の三池の条の付箋に「此三池之御太刀御神体(家康)御同意に奉尊崇御事に御座候」とあるように徳川将軍家にとって重要なものであった。社伝によれば家康が臨終の際に、大坂えの役後なお不穏な動向のある西国に切先を向けて立てて置く様に遺言したという。
幕臣眞田増譽が慶長から五代将軍綱吉に至る間の徳川氏を中心とした言行事跡を記録した「明良洪範」(続編巻十五)によると、駿河の今川家の一族である御宿越前守の家に伝来した名剣があり、それは「そばえの剣とも又御池とも称す。此名刀後年子細有て神君へ献奉る。甚た御賞翫有けり。元和二年御他界の日、御宿の御腰の物にて生胴をためし、其侭血を拭はずして、御枕元に差置れ神霊を之に止められ、長く国家を守らせ玉はんとの御事也しとぞ。此事世にあまねく知事成ども、御宿の名刀の出所并に永く神前に止めらるる趣意を知人少し」と記して伝来を明らかにしている。しかるに由緒伝来がいつのまにわからなくなったのであろう。明治21年につくられた「久能山御宮御寶物目録」によると「元来徳川家相伝の御物にあらず、織田信雄公御援兵の為に勝利を得たる謝恩として贈り参らせし物という」と記されているが、これは「明良洪範」の記述を取るのが妥当であろう。
三池は筑後の三池に平安時代の承保頃に典太光世という刀工が出て、その後光世の名跡をつぐ者が室町時代まで続いているが、平安・鎌倉時代の作と伝えるものが比較的多く存在し、これらを総称して三池と呼び習わしている。平安・鎌倉時代の太刀はいづれも身幅が広く、鋒は詰って猪首鋒になり、刀身に幅の広い樋を彫っている。鍛えは小板目が細かに約んで地沸がよくつき、柔らかく綺麗であり、刃文は小沸のついた直刃で刃中にあまり働きのないものが多い。
この太刀は三池の作と伝えるものの中にあって特に地鉄がよく、刃文にも働が見られ、全体に古雅な作風を示しており、鎌倉時代中期を降らないものと鑑せられる。茎の銘文については、妙純が伝え持ったもので、ソハヤノツルギを倣したものと解されるが、妙純についても、ソハヤノツルギについても明かではない。なおこの銘文は書体から見て室町時代に刻されたものであろう。
拵は家康が晩年愛用したもので、柄は立鼓をやや強くとり、柄の縁金物と鞘の鯉口は小判形、小尻はやや縦長こ小判形につくり、鞘の肉取のよいものであり、戦国・桃山時代における打刀の一典型を示している。なお金具は目貫が後藤家の作、小柄は美濃彫、笄は後藤乗真あたりと鑑せられる。

刃長67.9cm、反り2.4cm、先幅2.7cm、鋒長2.1cm、元重0.7cm、先重0.4cm、茎長16.8cm
造込は鎬造、庵棟低く、中反り高く、身幅広く、猪首鋒。鍛えは板目肌極めてよくつみ、地斑細かに交じり、淡く映り立つ。刃文は中直刃で喰違刃、湯走り状の二重刃交じり、小沸よくつき、匂口冴える。帽子は直ぐ、先小丸に返る。彫物は幅広の棒樋と添樋を茎の中程まで掻流す。茎は雉股形、先切、鑢目切、目釘孔二個、佩表に「妙純伝持、ソハヤノツルキ」、佩裏に「ウツスナリ」と切付銘がある。

附 革柄蠟色鞘打刀拵
全長94.3cm、柄長72.7cm
鐔竪7.15cm、横6.4cm、厚0.35cm
小柄長10.7cm、幅1.45cm
笄長22.5cm

柄は木地に鮫皮を着せ、その上を黒漆塗りとし、さらに藍韋で菱巻にす。縁は赤銅磨地、頭は角製黒漆塗、目貫は波に川烏図で、波は銀、川烏は赤銅で全体を容彫にする。鞘は鯉口、栗形、返角、裏瓦、鐺を角でつくり、鞘全体を黒漆で塗る。栗形は金鵐目を付ける。小柄は赤銅魚子地に金高彫の這龍を据え、裏は哺金とする。笄は赤銅魚子地に金高彫の倶利伽羅龍を据え、裏は哺金とする。小刀 銘宣長七郎。鐔は竪丸形、赤銅磨地で、小柄・笄の櫃孔があり、表の切羽台に「三け」と刻銘がある。切羽は金の小刻付。鎺は二重で、上貝は金、下貝は銀でつくり、祐乗鑢をかける。

[鞘書]
白鞘に「御在世御指、無銘三池御刀 長弐尺弐寸三分半 表裏樋并添樋有之 幅御鎺本ニ而壱寸三分 中程ニ而壱寸壱分半 横手ニ而九分半 重御鎺本ニ而弐分半 横手ニ而壱分半 反八分半 掛目百八拾壱匁 安政五年戊午三月御研 本阿弥喜三二 御鞘内田吉十郎」の墨書がある。

[史料]
「久能山御道具之覚」
壱腰 三池無銘御腰物
長鍔 本より弐尺三寸三分
幅壱寸弐分半
中心に妙純伝持ソハヤノツルキウツスナリと有
御目貫銀の浪に赤銅にて川烏御ふち御鍔赤銅
御ははき上金下銀せつは鎺しととめ金
御小柄赤銅ななこ金裏くるみ金龍御小刀宣長七郎
御かうかい金龍赤銅ななこ
御鞘黒塗 袋錦
(付箋)此三池之御太刀御神体御同意に奉尊崇御事に御座候

ソハヤノツルキ(そはやのつるぎ)は静岡市の久能山東照宮蔵、徳川家康の遺品で、無銘の筑後国三池光世の作と伝え、重要文化財(旧国宝)に指定されている。もと駿州駿東郡大岡庄御宿(静岡県裾野市御宿)発祥の旧族・御宿家に伝来する。御宿越前守政友が豊臣方として、大坂夏の陣に討死したあと、その猶子:源左衛門貞友は、おそらく豊臣方へついた罪を許してもらうためであろう、伝来のソハヤノツルキを、徳川家康に献上した。御宿家の先祖が源頼朝より拝領、という説もある。これは後世の付会であろう。なお、武田家の臣:桂山十郎旧蔵という説がある。桂山は葛山と書くのが正しい。葛山十郎というのは、武田信玄の子で、信貞といい、葛山元氏の養子になった人である。そして、前記の御宿政友の父信友が、信玄の又従兄弟というので、十郎の軍代になっていた。そんな関係から、葛山のソハヤノツルキが、御宿家に移ったことも考えられないことではない。さらに、織田信雄が小牧の戦のとき、出兵してくれたお礼に家康に贈った、という説もあるが、これは誤伝であろう。
徳川家康は死の前日、彦坂光正に命じて、これで罪人を試し斬りさせた。心地よく切れ、土壇まで切り込んだ、と報告すると、たいへん満足し、自分で二振り三振りして、今までの枕刀と取り換えさせた。そして、榊原清久(照久)に向かい、われ亡きあとは久能山に納めよ、と命じた。さらに臨終の日には、西国の者どもは不安だから、切先を西に向けておけ、と刀を置き換えさせた。血のついたまま久能山の神殿に納めた、という説があるが、それは誤説である。
家康死後、久能山の宝庫に納めておいたところ、島原の乱のとき、榊原清久は夢のなかで家康に、なぜ宝庫に入れておく、早く内陣に入れろ、と叱られたので、夜中にさっそく内陣へ移した。したがって、ソハヤノツルキをご神体とするのは誤りである。
その後、刀身は研師の木屋が毎年拭いを奉仕していたが、錆が少し出たので安政5年(1858)3月、本阿弥長根が研ぎ、内田吉十郎が白鞘を作りなおした。これには打刀拵えがついていて、鎺は金銀無垢の二重、切羽も金無垢の小刻み、柄は黒塗りの鮫着せ、藍革の篠巻き、目貫は赤銅、水鳥の銀色絵、縁は赤銅無地、頭は角の掛け巻き、鐔は赤銅無地の円鐔、鞘は黒呂色塗り、両櫃付き、金具はすべて金無垢、笄は赤銅七々子地、に、金の剣巻き竜の高彫り、裏は金哺み、小柄は赤銅七々子地、金の這い竜の高彫り、裏は金哺み、小ガタナは宣長七郎作。下緒は紫組系。内袋は白羽二重、外袋は紫地に亀甲紋の錦で、精好の裏付き。紐は真紅の組糸。蒔絵の刀箱に入る。
刃長2尺2寸3寸(約67.6cm)、反り8分5厘(約2.5cm)。本造り、表裏に棒樋に添え樋。地鉄は板目肌やや流れ、刃文は直刃、二重刃まじる。鋩子小丸。中心は佩き表に「妙純伝持 ソハヤノツルキ」、裏に「ウツスナリ」と切りつける。中心は雉股中心になっているが、雉股の始まりが目釘孔より下にあることは、これが磨上げ中心であることを物語るものである。ところが、刃文の焼き出しを見ると、明らかに刃区の刃角から始まっている。これは磨り上げでないことの明らかな証拠である。したがって、この刀は銘にもあるとおり、写し物つまりソハヤノツルキの模造刀であることは、疑う余地がない。そして、ソハヤノツルキの原品は、本刀の出来からみて、三池光世の作と推定してよろしい。
しかし、本刀を従来のように光世の作とすれば、光世が模造したことになるが、光世のような古い時代に模造があったとは考えにくい。それに銘の書体がそんな古いものではない。せいぜい室町期のものである。「妙純」を武田信玄より数代前の先祖の法名、とする説もがるが、「武田系図」をみても、信玄の先祖にそんな法名の人はいない。それでこれは美濃の守護:土岐家の執権:斎藤越前守利国の法名であろう。利国は明応5年(1496)12月7日、江州に出兵して敗死しているが、法名には養父の利藤も妙椿、子の利親(和泉守兼定との合作が残されている)も妙親と、いずれも「妙」の字を用いている。利国はまた持是院公性ともいい、上洛したとき今出川家から、備前国包平の太刀を拝領したことが、「往昔抄」に見えている。利国の館には、部屋には武具が整然と並べてあって、いつでも出陣できるようになっていた。それほど武具に意を用いた人であるから、ソハヤノツルキを模造させたことも、当然考えられる。
模造したのは誰か、時代からも住地からも、初期の和泉守兼定が考えられる。古剣書にいう似せ物は、贋せ物ではなくて、写し物つまり模造のことである。「妙純伝持」の四字が不相応に大きいのは、妙純が下書きして与えたとおりに、切ったからであろう。手本にした原本は、熱田神宮の八剣神社にあるソハエの剣が真実であるならば、それと考えてよかろう。
ソハヤノツルキは明治43年、明治天皇の天覧に供し、翌年、旧国宝に指定された。

久能山東照宮蔵の伝三池の太刀がある、生中心に「妙純伝持ソハヤノツルキウツスナリ」と銘文が切ってあり、徳川家康が臨終に当たってこの太刀の切先を西方に向けておけと遺言したと伝えられる。福永酔剣氏はこの写しを造らせた妙純と云うのは、美濃の豪族で刀剣の鑑定家として知られる斎藤家家の利国入道妙純であろう、観智院本に伯耆安綱が田村将軍のソハヤノ剣を造ったとあり、古文献に熱田神宮の八剣の一にソハエノ剣をあげている、「エ」は「ヤ」の誤りで熱田神宮にソハヤノ剣があったことになると延べている。
而し田村将軍が節刀として佩びた剣は、御府に蔵して坂上宝剣と称されていたが、天徳4年(960年)内裏焼亡し、節刀も亦焼失したと伝えられている。康和2年(1100)、平正盛には鈴のみを賜はり、承久には後鳥羽上皇、延元には後醍醐天皇いづれも錦旗を授けられている、ソハヤノ剣を写すと云っても、平安中期に既に焼失していて、観智院本の云う安綱の姿と、田村麿の時代の直刀の直刃を手本にしたものと考えられる。
又一条関白兼良著に「桃華蘂葉節刀事」がある、妙純の妻は兼良の娘であるから、妙純は兼良から節刀のことを学んでいたであろう。田村麿と同じ征夷大将軍であった家康が、武勇の誉れ高い田村将軍の佩刀の写しを未だ安定しない西方に向けにらみをきかせたが、その剣を造らせたと思われる妙純利国は明応5年(1469)江州蒲生日野に於て長男:利親と共に戦死している。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺2寸3分5(67.7cm)
反り 8分5厘(2.6cm)
元幅 1寸3分(3.9cm)
先幅 9分3厘(2.8cm)
元重ね 2分2厘(0.6cm)
先重ね 1分5厘(0.45cm)
鋒長さ 1寸5厘(4.5cm)
茎長さ 5寸5分5厘(16.8cm)