宗三左文字(そうざさもんじ)

  • 指定:重要文化財
  • 刀 (金象嵌銘) 永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀 織田尾張守信長 (名物:宗三左文字)
  • 建勲神社蔵
  • 長さ 2尺2寸1分半(67.0cm)
  • 反り 5分3厘(1.6cm)

宗三左文字は、筑前の左文字作の刀で「享保名物帳」の消失之部に所載する。もと四国の三好政長入道宗三が所持したので「三好左文字」または「宗三左文字」、のち今川義元が佩用したので「義元左文字」と複数の号がある。宗三左文字を甲州の武田信虎に贈ったのは、大永7年(1527)2月、武田家の分家にあたる若狭の守護:武田元光を、城州山崎に破ったことがある。あるいはその時、信虎が元光方につかないための工作に、これを贈ったのかも知れない。天文6年(1537)2月、信虎の長女が今川義元に輿入れした時、婿引き出として義元に贈った。
「信長公記」には永禄3年(1560)5月19日、織田信長が桶狭間において義元を討補したとき、義元が不断(普段)佩いていた秘蔵の名誉の左文字を召し上げ、信長が普段ささせられたと記している。義元の腰にあるときは2尺6寸(約78.8cm)の太刀であったという。武田家や今川家では磨り上げていなかったことになる。信長はそれを幾度も試し斬りさせ、切れ味の良いのが分かったので、2尺2寸1分(約67.0cm)に磨り上げさせ、「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」、裏に「 織田尾張守信長」と金象嵌を入れさせて、自分の差料にしていた。天正10年(1582)6月2日、信長が本能寺で明智光秀に襲われたとき、その枕席にはべっていた松尾神社の祠官の娘が、これを持って逃げ出した。そして父のもとに隠していたが、文禄(1592)になって、豊臣秀吉に差し出した。

慶長6年(1601)の桃の節句に、豊臣秀頼は徳川家康を招待し、宗三左文字を贈った。家康はこれに替え鞘をいくつも作らせ、愛蔵していたが、皮肉にも大阪城攻めのときも、これを帯びて出陣した。秀忠も宗三左文字を重視し、嗣子:家光に譲ったのは、寛永9年(1632)正月23日、つまり死の前日だった。本阿弥光徳押形(寿斎本)・本阿弥光柴押形に所載され、本阿弥光温押形にも所載があり「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀 織田尾張守信長」の金象嵌銘と「二尺二寸丸む弥(丸棟 まるむね) 義元左文字号 信長公廿七年(二十七年 27年)」と注釈がある。信長公27年とあるのは、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは、信長27才であったので、金象嵌の内容を補記している。

「豊臣家御腰物帳」の「御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ヨリ有之分之帳」(慶長6年)
一之箱 一 よしもと左文字刀 大御所様え被進之
「御太刀御腰物御脇指方々え被遣之帳 慶長五年ヨリ同拾八年十二月迄」(慶長18年)
一之箱内 一 義元左文字 御刀 慶長六年三月 大御所様え被進之
豊臣家の蔵刀を納めた七つの刀箱のうち一之箱に宗三左文字は納められていた。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、慶長6年3月に秀頼は家康を大坂城に迎えた時に宗三左文字の刀を贈っている。宗三左文字は関ヶ原後の政治的に重要な時期に豊臣家の重宝として、最も初期に家康に贈られたもので、豊臣家においていかに重要視していたかを物語っている。家康と秀頼との間の贈答については他に、同年10月に物吉貞宗の脇指を、同12年8月に長光の太刀、同13年4月にみくほ(みくも)長光の太刀、また16年3月の二条城での会見の際、南泉の刀と左文字の脇指と真守の太刀を贈っている。
名物帳には「御物 義元 三好 宗三 左文字 磨上 長さ弐尺弐寸壱分半 無代
三好宗三所持。武田信虎へ遣(し)、義元へ伝(う)、信長公之御手に入(る)。彫付表中心樋の内に永禄三年五月十九日、平(に)義元討取之刻彼所持之刀、裏平に織田尾張守信長と有之。信長公御所持之時失る。後に秀頼公の御物成り 家康公へ被進、表裏樋有之。」
徳川実紀には「公(徳川家康)恒に三池典太の御刀、義元の左文字、本庄正宗の刀、この三刀はご秘蔵にて大坂御陣には義元の左文字を帯びたまふとある如く、この刀は至極の重宝として、二代将軍に伝へられたが徳川十五代中、この刀と本庄正宗のみは一度も御三家御家門へ賜つた事もなく、常に宝蔵へ納めて居た」と記されている。家康のお気に入りであった三振のうち、三池典太は家康の命により、その死後に久能山東照宮に納められた。宗三左文字と本庄正宗の二振は御三家にも下賜されることなく、江戸城内紅葉山の宝蔵に将軍家の重宝として納められていた。
明暦3年(1657)正月の振り袖火事で、焼け身となったが、幕府ではただちに越前康継(江戸三代)に焼き直させた。明治13年、京都の織田信長を祭神とした建勲神社が創建されると、徳川家はこれを寄付した。大正12年国宝、戦後、重要文化財に指定された。

姿は、鎬造、丸棟、身幅は元先共に広く、鋒は猪首ごころとなる。地鉄は小杢目よくつまり、地沸あつくつき地斑がある。刃文はもと互の目乱れで、飛び焼きあり、帽子も乱れ込んで尖る。焼き直し後は、匂口しまり広直仕立、尖りごころの小乱刃間遠に小足が入る。帽子は直ぐで小丸となる。彫物は表裏に樋を掻通し、中心は大磨上げ、目釘孔二個、差し表に「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」、裏に「 織田尾張守信長」と金象嵌が入る。丸棟は九州物に多く、江雪左文字なども同様となる。
金象嵌銘は、刀工名や鑑定家の名などを金象嵌で入れたものとなる。象嵌の手法にはいくつか種類があるが、刀剣の茎に「凹」状のくぼみを作り金を入れる。「凹」は奧にいくにしたがって「ハ」の字状に広がっているので金の欠落を防いでいる。火災により焼失してしまった刀であっても、金象嵌は意外と残るものが多い。宗三左文字も下方の一部を除き、ほぼ金象嵌が残ったようである。再刃のさいも刀身には熱を加えても、茎は加熱しないので金象嵌への影響は少ない。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺2寸1分半(67.0cm)
反り 5分3厘(1.6cm)
元幅 1分1厘(3.22cm)
先幅 7分3厘(2.22cm)
元重ね 2分(0.62cm)
先重ね 1分9厘(0.42cm)
鋒長さ 1寸6厘(3.2cm)
茎長さ 5寸4分9厘(16.6cm)
全長 2尺7寸6分(83.5cm)

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