蜻蛉切(とんぼきり)

  • 槍 銘 藤原正真作 (号:蜻蛉切)
  • 長さ 1尺4寸4分5厘(43.7cm)
  • 反り なし

 

 

蜻蛉切は徳川家康の臣:本多平八郎忠勝の名槍の異名で、蜻蛉が飛んできて、槍の刃に当たったところ、真っ二つに切れたところから命名された。本多平八郎忠勝は三河の人で、代々徳川氏に仕え、祖父の忠豊、父の忠高、叔父の忠真、いずれも徳川家のために討死するという武人の家柄である。忠勝は14歳の時からたびたびの戦いに参加して武功を立て、家康の四天王の一人として剛勇の名をはせた。

元亀3年(1572)9月、武田信玄が大挙して遠江に進入した折、徳川勢の殿りを勤めた忠勝は、黒塗り鹿角形鍬形の冑をつけ、ただ一人、槍をとって武田勢を睥睨して的を寄せ付けず、無事その役目を果たしたという。すなわち忠勝が進めば武田勢が退き、忠勝が下れば武田勢が押してくる有様、家康はこのときの忠勝に、「お前がいたために我が軍は全滅を免れることが出来た」と言って賞詞を与え、また武田勢は、「徳川に過ぎたるものがふたつある からのかしらに本多平八」と歌って賞めそやした。所は一言坂といい、近辺の里人までが、後年までこれを語り伝えたことが記されている。この日、忠勝は、柄の長さ2丈余(6m)、青貝螺鈿の槍を携えていた。槍を立てているところへ蜻蛉が当たって二つに切れた、このことから「蜻蛉切」の異名がついたという。一説に、蜻蛉が切れたのはこれより以前のどこかの戦場のだともいうが、いずれにしても優れた槍の物語として面白い。徳川家康が、忠勝の槍は日本を切り従えたから、”日本切り”、と名付けるがよかろう、と言ったが、一方の忠勝は大いに謙遜して、日本の形は蜻蛉に似ているから”蜻蛉切り”といい換えた、という説がある。しかし、忠勝が日本を切り従えた事実はないから、これは後世の創作でなければならない。天正3年(1575)5月、三州長篠合戦のとき、武田方の内藤昌豊が徳川家康の本陣めがけ、突進したときも、この槍をもって防戦した。天正10年(1582)6月、本能寺の変にあい、徳川家康が泉州堺から逃げ帰るときも、忠勝はこの槍をもって先導の役を果たした。天正12年(1584)4月、長久手の合戦に、わずか五百騎の手兵を携えて、豊臣秀吉の数万の大軍と並進し、これに挑んで秀吉の舌を捲かせた話は有名に過ぎる。天正16年従五位下、中務大輔、同18年小田原の陣に北条氏の降伏を斡旋して、秀吉から佐藤忠信所用と伝える兜を与えられた。

慶長5年(1600)9月、関ヶ原合戦のとき、徳川家康は島津勢に攻め立てられ、切腹しようとした。忠勝はこれを止めさせておいて、島津軍に馳せ向かい、敵将:川上左京の馬の脚を、この槍で払った。落馬した左京を、忠勝の家来:梶金平が討ち取った、という説があるが、それは虚談である。左京は天正14年(1586)7月6日、つまり14年前に戦死しているからである。なお、事実は逆に忠勝が、島津勢の鉄砲にあたり、落馬した。危うく首をかかれるところだったが、梶金平が機転を利かせて自分の馬に忠勝を乗せて逃がしたので、生命は助かったのである。

忠勝は翌年(1601)、勢州桑名城主になった。城下の町屋河原に出て、馬上でこの槍の石突を握って、振り回していた。帰ってから柄を3尺(約90.9cm)ほど、切り詰めさせたという。その意図が分かりかねて不審がる家臣たちに、道具はおのれの力に応じたものでなければならぬと言った。柄は長さ2丈(約606cm)ほど、太くて青貝入りだったとか、長さ9尺6寸(約290.9cm)ともいうが、現存するものは長さ1丈3寸(約312.1cm)ほどで、鉄の口金。鐔・石突きが付いている。忠勝は槍には柄のみで鞘をつけず、裸身に油紙で巻いていたともいう。戦場では、鞘がじゃまになるからである。

鹿角の兜と鎧、この忠信の兜、そして「蜻蛉切の槍」は共に本多家に長く伝わり、往年の忠勝の武勇を物語っている。記録には螺鈿の柄が付属することになっているが、いまはその所在が知れず、朴の鞘、樫の短かい柄がついているだけである。

平三角造の大笹補、長さ1尺4寸4分5厘(43.7cm)、茎の長さ1尺8寸3分5厘(55.6cm)、元幅8分(55.6cm)、重ね3分5厘(1cm)広いところで幅1寸2分5厘、首は六角、まことに均整のとれた美しい姿形をしめす。鍛えは、板目、柾かかりよくつみ、焼刃は互の目のたれ、沸つき砂がしかかり、平に蓮台、梵字の彫りがあり、その上に太い樋を掻き、その中に三鈷剣と梵字を彫ってある。上部の梵字三字は上から、「カ」は地蔵菩薩、「キリーク」は阿弥陀如来、「サ」は聖観音菩薩となり、下部の長梵字「カンマン」は不動明王をあらわしている。反対面には、鎬筋を挟んで二組の細い二筋樋がある。鑢は切、目釘孔二つ、藤原正真作と明快な五字銘を切っている。目方は133匁弱(498g)、比較的軽いのは太い樋を掻いている故という。

作者正真は、室町時代の三河国の鍛冶で三河文殊と称せられるが、ときを同じくして大和国にも同名の刀工がおり、両者の銘振りに多少の異同が認められるけれども、作風からみて同一人か、あるいはごく近い関係の刀工といわれる。同名異工として、村正で有名な伊勢国千子派にも千子正真がおり、混同されがちであるが蜻蛉切の作者とはしては無関係のようにおもわれる。

本多家に「蜻蛉切」と号する槍がもう一口あったことが、江戸時代末期の絵図に載っている。それによると、形は直槍で、長さ1尺4寸(42.4cm)、幅1寸2分(3.6cm)、重ね3分5厘(1cm)、彫物は前記の笹穂の槍と同種、茎の長さ1尺8寸(54cm)、目釘孔2つ、銘は「三藤原正真作」となっている。三は三河の略で、笹穂の「蜻蛉切」の図は実物にそっくりであり、直槍の図は笹穂と並べて写されており、同筆とみられる。とすると、本多家には「蜻蛉切」が二口あったことになる。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 1尺4寸4分5厘(43.7cm)
反り なし
元幅 8分(55.6cm)
元重ね 3分5厘(1cm)
茎長さ 1尺8寸3分5厘(55.6cm)
茎反り なし
重量 133匁弱(498g)

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