鳥養国俊(とりかいくにとし)

  • 指定:重要美術品
  • 太刀 銘 国俊 (名物:鳥養国俊)
  • 徳川美術館蔵
  • 長さ1尺9寸9分(60.3cm)
  • 反り8分(2.6cm)

 

 

鳥養国俊は京の二字国俊作の小太刀で「享保名物帳」に所載する。名物の鳥養来国次と同じく、初め鳥飼宗慶が所持し、宗慶は摂津国島下郡鳥飼(大阪府茨木市鳥飼)の出身で、書道の御家流より出て、鳥飼流をおこした大家であった。その子:与兵衛宗精に譲り、それを細川幽斎が百五十貫で買い取り、子息の忠興に譲った。忠興はこれを石田三成に、五百貫で売った。本阿弥光徳刀絵図に所載する。
三成が関ヶ原の役で敗死したので、一時は鳥養国俊も行方不明となっていたのを、勢州津(三重県)の城主:富田信高が探し出してきて、徳川家康に献上した。信高はかねて三成とは不仲だったので、関ヶ原の役では東軍にくみした。それで西軍に猛攻され落城、高野山に逃げ込んでいた。東軍の勝利に終わると、また旧領に復帰を許された。戦後加増して伊予国宇和島城をたまわる。家康の遺物として、元和4年(1618)11月、尾州の徳川義直に贈られた。義直が慶安3年(1650)死去すると、本阿弥家に折紙を求めてきたので、六十枚の代付けをした。以後、同家に伝来、昭和16年、重要美術品に認定された。

名物帳には「尾張殿 鳥養(国俊) 銘有 長さ壱尺九寸九分 金六十枚代付
表裏樋。鳥養宗慶所持。能書之由。息与兵衛へ伝(う)。幽斎老百五十貫に御求(め)御子息忠興殿へお御伝へ、治部少輔五百貫に求(め)関ヶ原の時失(す)。富田信濃守殿被取出 家康公へ上る。尾張殿へ御伝(え)大納言殿御逝去之砌慶長三年に来(り)右之代付也。」
※ 慶長は慶安の誤記

尾張徳川家における記録では
・御腰物元帳(文政頃) 仁二ノ六十六
一 名物鳥飼二字国俊御脇指 銘有長壱尺九寸九分
・鞘書
「仁二ノ拾(仁2-10)」 名物鳥飼二字国俊御小サ刀 銘有長壱尺九寸九分

形状は、鎬造り、庵棟、表裏かき流しの棒樋があり、樋先は上がる。腰反りごころに反りが高く、小切先は猪首形となりフクラつくこころとなる。。鍛えは、小板目つんで、地沸つき見事である。刃文は、表裏とももと丁子に小乱れ交じり、物打ち辺から上部は広直刃となり、匂口がやや締まって淋しくなる。茎は少しく磨上げ、棟は小肉、鑢切り、目釘孔二。銘は佩表に「国俊」と二字やや大振りに切る。
二字国俊の小太刀はめずらしいもので、他に国俊の父:来国行や来国俊にも小太刀の作例が遺されている。二荒山神社(栃木県日光市)が所蔵する来国俊のものは小太刀としては唯一の国宝に指定されている。鳥養国俊は斯界では小太刀を代表する名刀として広く知られている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 1尺9寸9分(60.3cm)
反り 8分(2.6cm)
元幅 1寸(3.03cm)
先幅 7分6厘(2.5cm)
元重ね 2分5厘(0.8cm)
先重ね 1分5厘(0.5cm)
茎長さ 5寸2分(15.8cm)

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