鶴丸国永(つるまるくになが)

  • 指定:御物
  • 太刀 銘 国永 (名物:鶴丸国永)
  • 宮内庁蔵
  • 長さ 2尺5寸9分5厘(78.63cm)
  • 反り 9分(2.73cm)

 

 

鶴丸国永は、山城の五条国永作の太刀で「享保名物帳」に所載する。初め保元(1156)の乱のころ、村上太郎長盛(永守・長時)が所持、長盛は初め近くにとも称したという。「保元物語」に信濃住人:村上判官代基国の名が出ている。その甥に仲盛がいる。長盛とはこの仲盛のことかも知れない。その一族の清野三郎入道が所持した。清野家は信州植科郡清野村(長野市清野)に住し、村上家の代官を務めていた。両家とも村上源氏であるから、村上源氏の家紋である竜胆の紋を、太刀の鞘に、太刀の金具に、または鎺に、透しになっていたとも、あるいは鞘が螺鈿になっていたので、竜胆丸と呼ばれていた。
その後の伝来については、竜胆丸と鶴丸の同物説と、別物説とがある。後説では、竜胆丸を清野三郎所持としたあと、「同作の太刀」つまり国永作の太刀を、城ノ太郎も所持、とあって、明らかに清野三郎の国永と、城ノ太郎の国永を区別している。その上、この別物説を掲げる古剣書が、年代的に同物説よりずっと古いから、別物説を正しいとすべきである。
別物説で最初の所持者を、城ノ太郎また城ノ太郎貞茂(貞成の誤り)とする説と、城ノ奥州太郎・城ノ陸奥太郎資持(資茂の誤り)・城ノ陸奥太郎近延(親信の誤り)などとする説とがある。城ノ太郎を平貞茂とする説は、他の説に比して年代がずっと若く、貞享(1684)ごろの資料だから採るに足りない。城ノ陸奥太郎説を採るべきであるが、これは安達姓を名乗った陸奥太郎貞泰のことである。城一族で陸奥守になったのは、貞泰の祖父:泰盛が初めてだった。
泰盛一族は弘安8年(1285)11月、いわゆる霜月騒動で、北条氏の策略により滅亡した。まだ年少の貞泰もそれに殉じたはずである。北条貞時はこれを弘安の役の戦場で拾ったともいうが、貞泰を敗死させたとき入手したものであろう。これを陵または陵丸とよぶのは、城ノ太郎の墓から掘り出したから、あるいは城ノ太郎、または北条貞時の墓に掛けたからともいう。中国では季札が徐君の墓の木に、わが愛剣をかけて去った、という故事があるが、わが国には墓に刀をかける、という風習はないから、城ノ太郎つまり泰盛一族の墓から発掘した、というのが真相であろう。
北条貞時から同家の伝来となった。その後の伝来は不明であるが、同じ平氏である織田信長が入手し、それを与えたのは、三枝勘兵衛とも、三牧勘兵衛ともいうが、後者が正しい。前者はまだ生まれていなかったからである。三牧勘兵衛は正しくは御牧勘兵衛と書き、名は景則という。信長死後は豊臣秀吉に仕え、千七百国を給せられていた。子の勘兵衛信景が関ヶ原の役で敗れ、浪人となったらしく、名も四手井清庵と改めている。それで鶴丸も手放したのであろう。勘兵衛家は山城久世郡三牧村にあったので、そこから程近い伏見の藤森の某家が、鶴丸を譲りうけた。
本阿弥光的の次男は出家して、一乗院と称した。それが貞享(1684)ごろ、藤森の某家から鶴丸を取り出し、藤森神社の神事などに貸し出していた。藤森神社では5月5日、甲冑をつけた武者行列をするので、それに貸し出していた。そして、元禄16年(1703)8月3日、金二百枚の本阿弥家折紙をつけた。その後、本阿弥六郎左衛門の添状をそえ、森田左衛門という刀屋が、鶴丸国永という触れ込みで、奥州仙台の伊達家に納めた。同家ではそれに早速、同家の定紋:引両入りの金具をつけ、鞘にも同じ紋蒔絵にした太刀拵えをつけた。
貞享(1684)ごろの説として、三牧勘兵衛には男子がなかったので、娘がこの刀を持って、松田家に嫁いだというが、勘兵衛には前述のとおり、信景という嫡子があった。その子孫は、花山院家の公家侍になって、永続しているから、以上の説は創作である。さらに、松田家に嫁いだ娘の産んだ末子が出家し、素懐と称した。それがこの刀をもらったが、そんな名刀とは知らないので、本阿弥光徳に鑑定を求めたところ、これは鶴丸国永だ、といわれて驚いた。
光徳から、何か証拠になるものはないか、と言われたので、素懐が帰って調べてみると、果たして明智光秀から勘兵衛あての手紙に、そのことが書いてあった。喜んだ素懐は、貞享元年(1684)6月、蝶夢散人に頼んで、以上の由来書を寛文に綴ってもらったという。
しかし、本阿弥光徳は元和5年(1619)の死去で、明智光秀を引き合いに出しているが、光秀に仕えたのは三牧三左衛門といって、中川清秀に斬られた。三牧勘兵衛とは全く別人である。
享保4年(1719)、本阿弥家から幕府に提出した「名物帳」に、鶴丸国永の由来も出ているが、貞享元年(1684)の「鶴丸由来記」とは異なる。鶴丸は伊達家で本阿弥成善に、入念な研ぎをさせたあと、明治34年、明治天皇へ献上した。その時、旧姓本阿弥の竹中公鑒が、貞享(1684)の「鶴丸由来記」を探し出して、宮内省に提出した。
「享保名物帳」には、「代三千貫」とある。元禄16年(1703)、金二百枚の折紙がついている。鶴丸とうい語源については、「仔細は不知」とあるが、初め村上太郎の佩刀だったころ、拵えに鶴の紋が入っていたため、という説がある。しかし、村上家の国永は竜胆丸であって、鶴丸ではなかったし、また村上家の紋は鶴ではなかった。
鎌倉幕府から厳島神社へ奉納した太刀には、鶴丸の紋を入れるのが恒例になっていた。すると、これも北条氏がどこかの神社に奉納するとき、鶴丸の紋の拵えをつけたので、鶴丸国永と呼ぶようになったのであろう。北条貞時以後の所伝が不明なのは、どこからの神社に奉納されていたからで、それを織田信長が召し上げたのであろう。
名物帳には「松平陸奥守殿 鶴丸国永 銘有 長さ弐尺五寸九分半 代 参千貫
北条家伝来之太刀也。信長公へ伝る。三枝勘兵衛へ被下、貞享の頃か、光的二男出家一乗院伏見藤の森にて取出す。神事等に借(し)太刀に致(す)由也。古き拵伝来の書付も出る。鶴丸と云(う)子細は不知。」
伊達家の蔵刀目録である「剣槍秘録(けんそうひろく)」には鶴丸国永は記載されていない。伊達家においてもこれほど有名な名物が記載されていないのは不思議であるが、他に、太刀 景秀(くろんぼ切り)(重文)、太刀 備前義景(重文)など記載が無いものもある。

刃長2尺5寸9分5厘(78.63cm)、反り9分(2.73cm)、形状は、鎬造、庵棟、腰反高く、踏張あり小鋒。鍛えは、小板目よくつみ、地沸つき、地景ごころがある。刃文は、小乱れ、足・葉よく入り、匂深く小沸よくつき、物打特に金筋かかる。表裏とも一分ほど焼き落とし気味があり、表に腰刃をやく。帽子は、僅かに乱れ込み、先尖りごころの小丸、掃かけ、金筋かかる。茎は、生ぶ、雉子股形、先細い栗尻、鑢目浅い勝手下り、目釘孔一。

五条国永は三条宗近門の在国の子とも孫とも伝え、その兄もしくは親と伝える兼永ともども京五条に住したことから五条国永と通称せられる。国永の有銘作の現存は稀で、鶴丸国永のほかには、重要文化財指定の剣、伊勢神宮の太刀、伊東巳代治伯旧蔵の重要美術品認定の太刀、備前池田家伝来の太刀があげられる。国永の作風は、地肌が如何にも細かに約み、地沸がつき、刃文の小乱れが如何にもよく働いている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

(法量)
長さ 2尺5寸9分5厘(78.63cm)
反り 9分(2.73cm)
元幅 9分強(2.73cm)
先幅 5分強(1.52cm)
元重ね 2分2厘(0.67cm)
先重ね 1分3厘(0.39cm)
鋒長さ 7分5厘弱(2.27cm)
茎長さ 6寸弱(18.18m)
茎反り 1分強(0.3cm)