長曽祢虎徹(ながそねこてつ)

  • 新刀最上作
  • 最上大業物
  • 武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県-東部)
  • 江戸時代中期 寛文頃 1661-1672年頃

 

 

長曽祢虎徹は、江戸新刀の代表工である長曽弥興里の入道銘で、越前から江戸へ移住当初は、「古鉄」と称していたが、のち李広が石を虎とみて射たところ、矢が石に徹った、という故事に因んだのであろう、同音の虎徹に改めた。虎の字の最後のハネを、上に長くS字状にはね上げた銘を「ハネ虎」、乕と略字で書いたものを「角虎」と呼ぶ。興里の養子:興正も虎徹を襲名し、やや異風となるハネ虎銘を切ったものがある。

興里は長曽弥興里入道虎徹と称する江戸新刀の代表工で、現在の滋賀県彦根市長曽根において、慶長元年(1596)2月18日に出生ともいう。通称は三之丞または才一といった。関ヶ原合戦の戦火をさけて、父に抱かれ越前福井に移ったともいうが、井伊家が彦根に入場すると、強制的に長曽弥の住民たちを立ち退かせた。それで福井へ逃げ出したのであろう。福井では足羽町106番地にいたらしく、今も”虎徹屋敷”と呼ばれている。

前半生は甲冑師だったが、自ら刀銘に「至半百居住武州之江戸」と切っているとおり、五十歳くらいで江戸に出、刀工に転向した。その時期は甲冑の銘に、「乙未明暦元年八月日 長曽弥興里 於武州江戸作之」とあるから、明暦元年(1655)以前でなければならぬ。その作刀は非凡な切れ味と、見事な彫刻とによって、たちまち江戸の人気をさらい、常陸国額田藩や幕臣:稲葉正休から召し抱えられたこともある。

なお、郷里彦根に帰省して鍛刀したこともある。今なお”虎徹淬刃水”と石標のたった古井戸が残っている。江戸では初め本所割下水、のち上野池の端湯島にいたとも、神田ともいう。晩年は上野の”御花畑”付近にいたとみえ、刀銘に「住東叡山忍岡辺」と切ったものがある。入道して、初めは「古鉄」、のちには「虎徹」と称した。一心斎と号したともいうが、それを刀銘に切ったものはない。

興里は彫刻の名人で、剣巻き竜が主であるが、浦島太郎・大黒天・蓬莱山・風雷神などもある。切れ味は、”最上大業物”と格付けされ、「三ツ胴截断」と山野加右衛門の試し銘の入った刀もかなりある。稲葉正休が殿中で堀田大老を刺した刀は、興里の作だった。新選組の近藤勇も虎徹をもとめたことは周知である。

興里の刀の特徴は、まず当時、無反りの刀が流行したので、反りの浅いものが多い。つぎは地鉄の杢目肌が詰まって強いこと。これは切れ味の優秀な所以でもある。刃文は互の目乱れや湾れ刃を好んで焼くが、いずれも足が入り、鋭さを感じさせる。鋩子は小丸、上品に返る。中心の鑢目は初め筋違い、のち勝手下がりとなる。銘は「興」を初め「奥」と略体に切るのでこれを「略興」とよぶ。「虎」も初めは最後の画を、上に蛇行させて跳ね上げるので、「跳ね虎」とよぶ。これに対して「乕」と略体に書いたものを、「角虎」とよんでいる。

興正は長曽弥興里入道虎徹の門人、のち養子になる。よって「長曽弥虎徹二代目興正」とも銘する。通称は庄兵衛といい、下谷池の端に居住した。刀銘には、「於豊島郡」「東叡山於忍岡辺」と切ったものがある。元禄(1688)初期まで生存したという。その子・左市は罪を犯して刑死し、もう一人の庄左衛門は業を継がなかった。興正の作風は養父に似て、少し劣るが、切れ味は同じく”最上大業物”に列せられている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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