千子村正(せんごむらまさ)

  • 位列:古刀最上作
  • 国:伊勢国
  • 時代:室町時代後期 大永頃 1521-1527年頃

 

 

千子村正には現存する年紀と作風から三代があるようといわれている。現存するものは室町中期以降の作に限られており、現存刀の年紀の中で最古のものは文亀元年となる。二字銘のものでそれよりも少しく古調なものが存在するが、それは一代中の初期銘と晩年銘の変遷といわれている。
系図では村正の始祖を美濃赤坂兼村とするのは「如手引之抄」の説であるが、竹屋如安の「美濃国関鍛冶系図」では、初代村正は関兼春の門となっている。又古来村正を平安城長吉の門としている説もあるが、弘治ごろの本阿弥光心が足利義輝に献上した写本には、逆に長吉を村正の弟子として、「本ト京平安城ノ流ト云三河ニ住、文亀ノ比ヨリ村正弟子ニ成也」としている。なお、村正の屋敷跡は現在の桑名市東方村にあるという。
村正の作風は、刀・小脇指・短刀があるが、刀は69.7cm(2尺3寸)前後のものが多く、反りの浅い、重ねのやや薄い、鎬の高い、平肉の少ない、鋒の延びごころのものが多い。小脇指・短刀は27.3cm(9寸)前後から42.4cm(1尺4寸)ぐらいまでのものが多く、反りがあり、重ねが薄く、平肉が少ない。彫刻は、棒樋・二筋樋・梵字・剣・草の倶利伽羅などがあり、いずれの彫刻もやや寸が延び、丈の長い気味がある。地鉄は強い方であり、肌が小模様に詰んだものが多く、総体に堅い感じがあって、この時代の美濃物と同様である。刃文は匂本位に叢沸のつく気味があり、のたれ、のたれ乱、大乱、互の目尖り、三本杉、箱乱などがあり、いずれもきわめて誇張的で、乱れの谷が刃先にせまったり、または抜けたようにみえるものもあって、乱れと乱れの谷がのたれになる特色がある。また三本杉は美濃の兼元のように単独にならないで三つずつが一つの乱れになるのも手癖である。腰刃を焼いてあるものもあり、表裏の刃文がよく揃っているものが多い。帽子は乱込み、地蔵、尖り、さらに大丸のものなどがあるが、いずれも返りに乱れや乱れごころが交じり、いかつい気分がある。茎は特色が強く、「たなご腹」風のものが多いが、時代が遅れるに従ってそれが一段と誇張的になっている。この「たなご腹」は末相州物、或いは武州下原物、また駿河の島田物などに共通するものがあり、相互の技術交流があったといわれている。
このような作域のものが多く、しかも実際には斬味が抜群で、見るからに凄味のある焼刃や地鉄の冴えなどが相俟って、巷間に村正の妖刀説が流布したのだろう。

村正の現存刀中最古の年紀は文亀元年八月で、妙法村正の永正十年十月までに12年余のへだたりがあるが、地刃・彫刻ともに同調であり、同一刀工の作といわれている。古刀には表裏刃文の揃わないものが多いが、村正は判然と揃える特色を示しており、茎の「たなご腹」がさまで目立たず、茎先が茎尻であることは、同名中でも古いことを注意したい。年紀中の10月13日は日蓮上人の忌日(弘安5年)、「妙法蓮華経」の添名とともに、村正の信仰を物語るものであろう。「妙法蓮華経」の文字に因み「妙法村正」、或いは、「題目村正」とも称される。なお、茎の棟に「鍋信」と銀象嵌があって、鍋島信濃守勝重の所持銘を意味するものであり、元和3年叙封、同5年12月、紀伊守に叙任した勝重の子:元茂が祖となった肥前小城藩の同家に永く秘蔵されたものである。
昭和17年12月16日、重要美術品認定。認定時の所有者は東京:鍋島直庸氏(小城鍋島家12代当主)
千子村正には重要文化財の指定品は無く、重要美術品も妙法村正の1振のみとなっている。

刀 銘 村正 妙法蓮華経 永正十天葵酉十月十三日(棟に)(銀象嵌)鍋信
長さ 2尺1寸9分(66.4cm)、反り 5分強(1.6cm)、元幅 9分2厘(2.8cm)、先幅 6分2厘(1.9cm)、鋒長さ 1寸0分5厘(3.2cm)、茎長さ 4寸9分5厘(15.0cm)
形状は、鎬造、庵棟、先反りごころ、中鋒。鍛えは、板目やや柾がかり、肌立つ。刃文は、直刃、表裏元に箱乱が揃う。帽子は、小丸。彫物は、表裏草倶利伽羅。茎は、たなご腹形、先栗尻、鑢目浅い勝手下がり、目釘孔一。

妙法蓮華経とは、梵名「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」 秦の羅什訳、七巻または八巻、略して「法華経」とよぶ。天台宗と日蓮宗はこれを所依の経典として成立する。刀剣の彫物としても、伊勢村正に「妙法蓮華経」、相州広次・綱広、備前長船康光・法光、備後の一乗、肥後の同田貫上野介、江戸の長曽祢興里などに、「南無妙法蓮華経」と切ったものがある。いずれも日蓮宗徒だったからである。大慶直胤にも「南無妙法蓮華経」、と切ったのがあるが、直胤は日蓮宗ではなかったから、注文主の依頼によるものという。「妙法蓮華経」の五字に帰依するの意の「南無」を加えて「南無妙法蓮華経」の七字にして「題目」と呼ぶ。
「妙法蓮華経」の最後の巻にある「観世音菩薩普門第二十五」には、観世音菩薩によって、女人までも成仏できると説いてあるので、この一品だけを「観音経」とよび、いわゆる観音信仰が弘まった。

小城藩鍋島家は、佐賀藩初代藩主:鍋島勝茂の嫡男:元茂が、父:勝茂より七万三千石を分知され、二代:直能のとき小城に居所をいとなみ立藩した。元茂は勝茂の嫡男にうまれるが、四男の弟:忠直の生母:菊姫(勝茂の後妻、岡部長盛の娘)が徳川家康の養女であるため、宗家をつがず分家した。忠直は長兄の元茂など3人の兄を差し置いて嫡男として扱われる。元和8年(1622年)、徳川秀忠から偏諱の「忠」の字と松平の氏姓を授けられた。佐賀藩二代藩主の座を約束されていたが、疱瘡にかかり23歳で早世してしまう。忠直の子:光茂(元茂の甥、勝茂の孫)が本藩である佐賀藩三十五万七千石の二代目を継いだ。その後も、光茂の佐賀藩鍋島宗家と勝茂の子や弟らが藩主であった三支藩(蓮池藩、小城藩、鹿島藩)は幾つかの諍いを起こし因縁をのこしている。
妙法村正は佐賀藩鍋島宗家ではなく支藩の小城藩鍋島家に伝来し秘蔵されていた。勝茂の愛刀であったが、後妻の菊姫が徳川家康の養女であったので幕府や徳川家に遠慮して、鍋島宗家ではなく嫡男:元茂の小城藩鍋島家に伝わったのであろうか。本来であれば、嫡流であったのにも拘わらず鍋島宗家を継ぐことができず、さらに、その家督を簒奪した光茂から「三家格式」により統制を強められ、冷遇された歴代の小城藩鍋島家藩主らが妙法村正をさぞかし珍重したであろうことは想像に難くない。

佐賀藩鍋島家のお抱え鍛冶に橋本忠吉家とその一門がいる。初代忠吉には写し物が多くあり、来写し・志津写し・包永写し・青江写し・長義写し・広光写し・景光写しなどがみられる。そのなかに、「村正写し」もみられ、村正の特徴である元に腰刃を焼いて、その上はのたれ互の目か直刃となり、表裏がよく揃うものとなる。初代忠吉の村正写しは、慶長20年紀の刀が2振、元和5年頃の脇指、元和7年紀の刀などがあり、いずれも住人銘の頃となる。二代:近江大掾忠広にも村正写しはみられ、寛永12~13年頃の刀、寛永19年頃の脇指、慶安頃の脇指に腰刃を焼いた村正写しがみられる。しかし、慶安から正保頃の作を境に、それ以降の二代忠広に腰刃の作はみられなくなり、これは明暦3年の勝茂の没年とほぼ合致している。初・二代の村正写しは、元に腰刃を焼いて直刃や浅い小のたれとなり、彫物は無いが村正写しでも「妙法村正」を手本として写している。初・二代の村正写しの作品を比較すると、初代は腰刃にのたれ互の目、二代は腰刃に直刃となり、本歌の妙法村正は腰刃に直刃となっている。橋本家には藩主:鍋島勝重よりの厳しい注文書が残されており、それには長さ・刃文・志津に似せるように・銘文などについて事細かに書かれている。写しについても、他のものは志津写しなど注文書など古文書にあるが、村正写しに関しては記録がない。これは、万一を考慮して、証拠が残る文書注文を控え、口頭注文の形がとられたためといわれている。鍋島家に伝来した、重要美術品に認定されている備前景光作の元亨三年紀を有する片切刃造に孕み龍の彫物のある短刀は、藩主の命により初代忠吉が忠実な写しを制作し、宗長が彫物を施したものが現存している。この例をみても、作刀と彫物の双方とも技術的には十二分に可能であったはずとおもわれるが、村正写しにおいて腰刃に直刃の刃文とともに表裏に草の倶利伽羅の彫物を施した完全な「妙法村正」写しは未だに確認されていない。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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