助廣が手がけた「刀 銘 津田越前守助廣 寛文十二年八月日」は、寛文十二年(1672)八月の年紀を持つ一振で、作刀の充実期にあたる頃の代表作とされています。

全長約74.8cm(二尺四寸七分)、反りは約1.5cm(五分)。中鋒を備え、踏張りのある体配が印象的で、反りも比較的高めです。鎬造に庵棟という構造が、この刀の堂々とした姿を引き立てています。

地鉄には小板目肌がよく詰み、地沸が厚くついており、明るさと冴えが際立っています。刃文は、助廣が得意とした濤瀾刃1で構成され、匂口は深く、小沸が均一です。足の入りも見事で、刃中には働きのある動きが随所に見られます。帽子は丸く返り、先には控えめな掃きかけが見えるなど、丁寧な焼きが施されている点が特徴です。

茎の造りも魅力的で、化粧鑢2を含む筋違の鑢目が美しく、目釘孔は二つ。先端は入山形で、全体に締まりがあります。銘文は表に「津田越前守助廣」と楷書で刻まれ、裏面には草書体で「寛文十二年八月日」の紀年銘が入ります。この形式は、助廣が銘字の変化を取り入れていた時期を象徴しており、表銘を草書体に改める前段階の作とされます。

助廣は明暦三年(1657)に越前守を受領し、初期の作品では楷書体で銘を刻んでいました。やがて寛文七年八月から裏銘を草書に、延宝二年からは表銘も草書体へと移行します。このような変化にちなみ、楷書銘を「カク津田」、草書銘を「マル津田」と呼ぶのが一般的です。

この刀が作られた寛文十二年は、ちょうど延宝元年にもあたり、助廣は当時36歳。10年後の天和二年に46歳で没したことからも、この頃が彼の技術の頂点であったといえるでしょう。本作にはその完成度の高さがよく表れており、助廣の力量と美意識が結晶した一口として評価されています。

【脚注】
※1 濤瀾刃:波濤(波のうねり)に似た大きな乱れの刃文。助廣の代名詞
※2 化粧鑢:装飾的な意図で丁寧に施された鑢目

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