刀の歴史
現在わたしたちが一般に思い浮かべる反りのある日本刀が出現したのは、平安中期ごろ(1050年前)といわれています。その当時の藤原秀郷佩用の太刀に反りがつき鎬筋が中央に表れているからで、これが平安初期の坂上田村麻呂の佩刀ですとまだ切刃造りの直刃です。ですのでそれ以前の、例えば「日本書紀」の日本武尊の草薙の剣は直剣で、当時の剣は百済のほうから渡ってきたものとおもわれます。また、刀を美しく表現する研磨のほうも、ただ刃先を実用的に鋭くするだ研ぎだけでなく、すでに刃文や地鉄をながめることができる磨きの方も行われていたと言われています。
平安末期になりますと刀剣の技術はかなり進歩し、京都の三条宗近、備前の友成・正常、伯耆の安綱、三池光世など今に優作の伝わる諸工があらわれ、すでに出来も湾刀の姿も完成されたものになります。いずれも鉄の有産地の出身でした。
鎌倉時代は刀剣の黄金時代です。武家が全国を支配することになり、刀も豪健な武家文化を反映して、身巾は広くなり腰反りに猪首切先、刃肉のたっぷりした蛤刃という、頑丈な大鎧を断ち切るにふさわしい大房丁子となります。また、この期から短刀と薙刀が出現します。後期になると文永・弘安の役の蒙古の襲来があります。この両役はわが国の戦闘方法を一変させました。ヨーロッパまで遠征し幾多の戦闘方式を体得した蒙古軍の集団戦法は、それまでの一騎打ち主体の個人戦に近いわが国の戦法を打ちのめしたのです。戦闘法の変換にともない武具もすぐに変化し、甲冑・太刀の型式が変わりました。太刀は刃肉が少なくなり、中間反りとなり、刃文も華麗な大丁子乱れは折れる危険性があるというので、地味は直ぐ丁子や直刃に足入りがあらわれます。また各地に優秀な刀工の出現をうながすことにもなり、特に相州伝の優工の活躍は目覚ましく、沸出来の互ノ目乱れなどを焼きます。有名な正宗などです。
南北朝時代になると槍が現れます。楠正成が戦いに初めて用いたという説と、九州の菊池一族が合戦で竹の先に短刀を結んで戦い、世にいう菊池槍を考案したという両説があります。刀にくらべて出現があまりにも遅い感じがしますが、楠正成の千早城の戦いのように日本の戦いにゲリラ戦が出現してから表舞台に登場してきたということのようです(同じような形の矛は考古遺物にもあるのですから)。しかし、これほど簡便な優秀な武器はほかにありませんので、その後の戦いでは中心武器となります。この槍の出現に呼応するのか、刀も従来の斬るというより長い刀で薙ぎはらうという面を重視するようになり、身巾が広く重ねが薄く、大切先の三尺前後の大太刀が出現するようになります。短刀もそれに合わせ、身巾広く重ね薄く、長さが一尺から一尺二、三、寸の平造りのものに変化します。
室町時代になりますと戦闘方法が騎兵から歩兵へと主力が移りましたので、太刀より短い腰に差して便利な打刀が主力となり、製作も打刀が主になってきました。とくに中期から後期になりますと、二尺前後でがっしりした体配の先反り片手打ちの姿が一世を風靡します。末備前の勝光などに代表される姿です。また、この時期は戦国時代と呼ばれるほどに意を注ぎ、また刀剣王国の備前長船が室町末期の吉井川の氾濫で壊滅してしまうため、美濃鍛冶は次の新刀期の中心勢力になり全国各地に拡散していくことになります。ただ、この期の刀は生産が膨大なため、はっきりと入念作と量産品に分かれることも特徴です。さてその短めの姿も室町最末期や安土桃山時代に近くなりますと、また姿が延びだし普通の姿となり、片手打ちはすたれました。
安土桃山時代から江戸時代の慶長ごろまでは、当時の豪放な気風が全ての文化にあらわれ、刀も巾広に元身巾と先身巾の差のない大切先の反りの浅い豪刀が好まれます。これは南北朝期の長い太刀を徒士用に寸法を切り詰めた大磨上のものです。この磨上がさかんに行われ、また当時の刀鍛冶もその姿を写したものをどんどん造りました。加えて刀の原料の鉄の製法も変わってきたようで、この期以前と以降では鉄の趣がいささか異なり、この期以前の刀を古刀、以降を新刀と呼んで区別しています。
江戸時代も寛文ごろになりますと、剣術の流行で突くということが重視されだし、この目的にあった反りの少ない小切先の刀が登場となります。長曽弥乕徹などです。またこの期の少し前から、刀・脇差の長さに関する制約令が何度か出ます。幕府政権の安定後の殺伐の気風をなくすためでした。刀は二尺八、九寸以下、脇差は一尺八寸以下に定められます。こうした規制や武士の官僚化における型式重視の風潮から、刀は二尺二、三寸が普通で大小二腰を差すようになり、短刀はほとんど製作されることがなくなりました。一方、この期から江戸中期にかけては、実際にお金を持ったのは豊かな商品たちでした。彼らは刀は持てませんから脇差の立派なものをどんどん注文しました。大坂の刀工には特に脇差が多く、優れたものを見ます。
江戸時代の中期は武士にとってはいわば泰平の世の中で、刀の製作は少なくなり、姿も寛文新刀のような張りのある姿から、反りのついた身巾尋常のすべてにほどほどの頃合いの姿のものとなります。
江戸後期になりますと国外の情報も入りだし、ここにまた刀製作の気運が出てきます。特に寛政から文化文政にかけて水心子正秀があらわれ、刀剣の復古主義を唱え、ほとんどの当時の刀工がその熱風にあおられました。新々刀という刀剣における新時代の出現です。姿も大切先や強めのもの、また異形なものなどが現れます。短刀もここにきて復活します。そして、幕末の後期ともなりますと開国論、攘夷倒幕運動などますます風雲急を告げ、講武所風など刀も反り浅く大切先の突っ立ち気味の武張った姿などが登場しました。
明治維新の激動は薩・長・土・肥を中心とする新政府が勝利を得ました。身分制度を改め四民平等とし、兵制も徴兵制となりました。明治三年に庶民の帯刀が禁止され、さらに明治九年に廃刀令が発布され、ここにおいて長く伝えられてきた刀工たちの役目もほとんど一瞬のうちに終えることになったのです。
以上が簡単な刀の通史でありますが、これは刀本来の使命の武器としての面をとらえた歴史であります。しかし、日本刀の存在と言うものは決して武器面だけで片付くものではなく、「武士の魂」といった日本人の精神面奥深くに関わるところがあり、ある意味ではやっかいで、語るについて避けては通れぬという一面があります。
日本刀というものは、刃物としては大変優秀なものであったことは確かです。それは第二次世界大戦で米国人を震え上がらせ、ひいてはそれが戦後の日本刀没収につながったことをみても明らかです。ひつつの道具のその性能が極端に向上すると、物というより人格性を帯びだし、人格化されることが多々おきます。そして、人格化された道具そのものがひとり歩きをはじめるといいます。
刀というのは火と鉄をつかって造り上げますので、最初から人格化・神格化されやすい格好の位置を得ていたことは事実です。火と鉄を扱うというその時代の最高の科学的知識が要求され、その出来上ったものは人の生殺与奪の権を持つという力。それは富と権力をも表わし、鉄を握ったものは力を得、神性・聖性まで与えられたのでした。
しかし、それも美しいものでなければ人を魅了し納得させるものにはなりません。剣が三種の神器として玉・鏡と共にあげられているのは、切れるだけではなく剣には見る人をして妖しく魅了する美しさと神秘性があるからなのです。
時代が下がり、豊臣秀吉が朝鮮征伐の折り、各大名に報償を与えようにも与える土地がないため、刀目利きの本阿弥に鑑定させた古名刀を代りに与えたということも刀の価値観を高めたに違いありません。しかし、それもあくまでも人を引き込むだけの強さと美しさを刀が持っていたからであり、また、その刀の美しさと価値観を認める精神性を、貰い受ける武士の側も備えていたからにほかなりません。安土桃山時代に日本にやって来た宣教師は刀の価格を聞き「金でもダイヤモンドでもないただの鉄の棒に、なぜそんな大金を・・・」と目をむいたという話です。
武器であって武器でなく、無機物ながら精神性をそなえるというのが日本刀の特殊性であり。それが日本刀の存在に陰影を与え、奥深い魅力を生み出していることは日本人であれば誰しもが自ぶと納得がいくところであります。