「昔、市場で重刀の近江大掾忠広が1300万円で取引できたんだよね、いい時代だったなァ」と大先輩のOさんがよく話されますが、その話は本当ですか?そのころの話を詳しく教えてください。また、高値になった理由なども教えてください、
ーという質問が寄せられました。
おそらく、今から50年近く前の昭和48~49年ごろの話かと思います。そのころ私はまだ(株)刀剣柴田で修行中であり、交換市場には出入りしていませんので、相場についてはわかりません。が、確かに当時の刀剣業界は好景気に沸き、展示即売会で特別貴重刀剣の角津田の刀が800万円だったり、無銘の重要刀剣が、700~800万円で売買されたことを覚えています。25~26歳で給与が6万円でしたので、刀剣はかなりの高値でした。
昭和42年ごろから刀剣の価格は徐々に上がり始め、49年をピークに毎年上がり続けたのですが、翌年ごろからゆっくりと長い坂を下がり始めたのでした。Oさんの話は刀剣ブームの最高潮のころの実話だったと思います。
そこで今回は若い頃を振り返りながら、刀剣業界がなぜ好況に至ったか、さまざまな要因について考えてみたいと思います。

<要因1>そのころ、わが国は高度成長期だった
昭和39年ごろから49年ごろにかけて、日本は好景気の中をまっしぐらに突き進む良き時代でした。私が高校二年生の39年に東京オリンピックが開催され、同年には東海道新幹線が開通、入社した45年3月からは大阪万博がありました。
特に40年から45年は「いざなぎ景気」と言われる高度経済成長期のまっただ中であり、日本中が好景気に沸いていました。さらに47年には間もなく総理大臣に就任する田中角栄氏から日本列島改造論が打ち出され、拍車がかかりました。
土地ブームが全国に沸き起こり、地価は急騰していきました。土地を売却して自宅を立派に建て替え、余るお金で車や美術品を買い求める例が珍しくありませんでした。デパートでは、そうしたニーズに応えて絵画や刀剣の展示即売会が盛んに行われたものです。
私の記憶では、45~51年ごろの刀剣柴田において、北は札幌・青森・秋田・仙台・新潟・富山・金沢、南は姫路・新居浜・今治など、東京では東京大丸・八王子大丸、三越日本橋本店・同銀座店・同新宿店等々で刀剣展示即売会を恒常的に開催していたものです。大丸や三越の各店には常設の刀剣コーナを出店していて、私は48~55年に、東京大丸5階の刀剣コーナーに勤務していました。
東京大丸では初春と中元時期には8階の大催事会場で、5月と10月には5階画廊にて計4回の展示即売会があり、大忙しでした。デパートの最優先課題は何と言っても売り上げであり、そこで長年続けられたことは期待される営業成績が持続できたことを物語っています。
そのほかのデパート、例えば高島屋・松坂屋・松屋・そごうなどでも、他の刀剣商の方々によって頻繁に展示即売会が開催されていました。しかも全国各地で開催されていたということは、いかに刀剣の人気があり、売り上げも好調であったかを物語っています。
しかし、世の中が好景気なだけで刀剣が大ブームになったのではありません。

<要因2>刀剣諸団体による愛刀家の育成、刀剣普及活動
当時は下記の刀剣団体があり、それぞれが特徴のある活動をされていました。
① 財団法人:日本美術刀剣保存協会(以下「日刀保」)
② 日本刀剣保存会
③ 日本春霞刀剣会
④ 刀苑社
⑤ 刀剣連合会
⑥ 中央刀剣会
ほか
各団体は会員を擁し支部があり(例えば日刀保では会員15,000人、支部60前後)、毎月あるいは隔月のペースで定例鑑賞会があり、全国大会も開催されていました。日刀保の本部鑑賞会には常に100名ほどの会員が集い、鑑賞刀約10振、鑑定刀5振を手に取り、熱心に勉強したものです。
私が学生の当時には、講師を務められる本間薫山先生・佐藤寒山先生・本阿弥日洲先生。沼田鎌次先生等の大先生方から貴重なお話を伺うことができ、大変勉強になった思い出があります。
昭和44年の日刀保全国大会は赤坂プリンスホテルで開催され、大盛況でした。当時、私は國學院大学の三年生で日本刀研究会に所属しており、部員40名ほどで大会の警備をお手伝いをさせていただきました。全国の会員約1,000名の参加で会場は超満員になり、名刀の鑑賞のためにできた長蛇の列を整理・誘導するのに汗だくになった思い出があります。
そのころ他団体の定例鑑賞会と言えば、日本刀保存会は小石川後楽園内にある涵徳亭で、日本春霞刀剣会は湯島天神で、刀苑社は新大久保にある稲荷神社で、本阿弥光博先生の日本刀研究会は上野の梅川亭で、それぞれ開催されてました。それらの会に毎回通い、ご指導いただいたことを懐かしく思い出します。
このように、鑑賞・鑑定会を通して指導する各団体には古くからの愛刀家はもちろん、初心者、業界関係者などさまざまな方々が参加し、熱心に勉強したものでした。

<要因3>日本刀の啓発に貢献したデパートの名刀展
一般の方々に対する日本刀の普及啓発に、有名デパートにおける名刀展が果たした役割は看過することができません。昭和42~47年、デパートの催事会場では今ではとても考えられない夢のような名刀展が開催されたのです。
そのうちのいくつかをご紹介しましょう。
42年9月8~20日、銀座松屋8階催事場において、日刀保と日本経済新聞社の共催で「日本名刀展」が開催されました。出品内容としては、御物の十万束信房の太刀、名物:平野藤四郎の短刀を筆頭に、日枝神社所蔵の則宗太刀など国宝7振を含む名刀87振、刀装・刀装具類では図録表紙になっている国宝:銀銅蛭巻太刀拵や重文の城州伏見住金家(春日野図鐔)など60点、さらに甲冑では国宝:白糸威大鎧(日御碕神社蔵)を含む5領が展示されました。
加えて日本刀を代表する正宗と虎徹のコーナーを併設し、正宗では城和泉守正宗や九鬼正宗、包丁正宗など代表作8振が、虎徹では重文を含む6振が堂々並びました。まさに空前絶後の大名刀展でした。
45年8月28~9月2日に大丸東京展で開催されたのは、日刀保・毎日新聞社共催の「英米からの里帰りと国内の名作」と題された名刀展でした。この時は御物・国宝・重文を含む100余点が展示されました。
御物の名物:鬼丸国綱。名物:若狭正宗、国宝の会津新藤五・日向正宗・徳善院貞宗、ほかには久能山東照宮の真恒の大太刀など、まさに圧巻でした。刀装では、京都:鞍馬寺所蔵の坂上田村麻呂佩剣とされる重文の黒漆剣が印象に残っています。この折、米国のコンプトン博士が照国神社に寄贈した国宝の国宗や元:英極東軍司令官:元帥サー・フランシス・フェスチング師所蔵の2振の清麿(ただし正行銘)も話題を呼びました。
同様の名刀展はこの時期、東急百貨店・新宿伊勢丹・三越本店などでも開催されました。後年「なぜ日本刀が好きになったのですか」という質問に対して、「デパートで名刀を拝見したのがきっかけで」と答える方が驚くほど多くいましたが、デパートでの名刀展はどれほど多くの方たちに刀剣の魅力を伝えたか計り知れません。
名刀展の開催に尽力された日刀保・各新聞社・百貨店、出展に協力された宮内庁・文化庁・全国の社寺、並びに愛刀家の皆さまに深く敬意を表したいと思います。
昭和48年、熊本市の大洋デパートで発生した火災を契機に法改正が行われ、現在ではデパートの催事場などでの国宝・重文等の展示はできなくなっています。

<要因4>信頼性と付加価値を高めた認定書・鑑定書
厳しい審査を経て発行される諸団体の認定書や鑑定書も、刀剣ブームの一翼を担ったと考えます。
例えば日刀保では現在、刀剣と刀装具類の審査会は別々にそれぞれ年4回行われています。審査はきわめて慎重に行われ、少しでも疑問の残る作は保留という形で向後の研究に待つことになります。
昭和45年前後には、毎週末、どこかの地方支部で審査会が行われていたものです。審査物件数は500~1,000ときわめて多く、審査員は正副2名のみで、支部の方々が押形や調書の記録をお手伝いするという態勢でしたから、多少の見落としがあったことは否めません。
しかし、全国各地で審査会が盛んに行われたことで、地方での日本刀の普及や活性化、愛刀家の育成に貢献したことは紛れもない事実です。

<要因5>日本刀の大衆化に寄与した出版とテレビ
昭和30年代後半から40年代にかけて、日本刀に関する書籍が盛んに出版されたことも、刀剣界の発展に大きく寄与しました。
代表的なものが「日本刀大鑑」全7巻、「新装日本刀講座」全8巻、「日本刀全集」全9巻などが挙げられます。これらはいずれも本間・佐藤両先生を中心に、日刀保の関係者が執筆・編集したものですが、個人の執筆による単行本も数多くありました。
私の師匠、柴田光男先生は「日本の名刀」「趣味の日本刀」「十剣」「新々刀入門」など数十冊を出版しています。柴田先生はテレビ出演とも相まって、日本刀の”大衆化”を自ら牽引された方だと思います。
「日本刀は難しい」とはしばしば聞く話ですが、趣味を持ち始めた方が知識を求めて手にする好個のツールが、入門書でした。次のステップに至ると、個別の研究書や名刀集も用意されているといった状況で、あのころの刀剣業界には誠に充実したシステムがありました。
そのほか、日本刀ブームを引き起こした要因はさまざま考えられますが、日本刀の価格が異常なまでに高騰した最大の理由は、年々価格が上がり続けたことにあると考えられます。土地や株式・絵画・貴金属に固有のものと思われていたのが、「買えば何でも儲かる」という社会現象が刀にも起こってしまったのです。
しかし、前述のように昭和49年の第一次オイルショック以降、日本刀の価格はゆっくりと下り坂を進み、10数年後の平成バブル期に再び上昇しますが、以前の最高潮期には及びませんでした。
明治以降、刀剣界はさまざまな困難を乗り越えてきました。
明治初年の廃刀令、大正12年の関東大震災、昭和20年のGHQによる武器提出命令…。幸い先人たちのご尽力により、登録制度の下に所持できることとなり、サンフランシスコ平和条約以降には現代刀も復活できました。
日本刀はわが国の宝であり、世界が認める鉄の芸術品です。コロナ禍の現在、刀剣業界は非常に厳しい状況にありますが、若い人たちが中心となって知恵を出し合い、正しくより良い刀剣業界とされることを願っています。

(刀剣界新聞-第57号 冥賀吉也)

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