朝倉藤四郎(あさくらとうしろう)

  • 短刀 銘 吉光 (名物:朝倉藤四郎)
  • 長さ 7寸8分(23.5cm)
  • 反り 内反り

 

 

朝倉藤四郎は粟田口吉光の作で、「享保名物帳」に所載する短刀である。もとの所持者を「越前朝倉左金吾貞景」とする説があるが、貞景は左金吾、つま左衛門督にはなっていないので、朝倉左金吾義景とする説が正しい。なお、義景が永禄2年(1559)に上洛したとき、細川伊豆守より求めた、ともいう。義景滅亡後は転々として、のち尼崎城主:青山大蔵少輔の有に帰した。そのとき本阿弥家で千貫の折紙をつけたが、慶安元年(1648)、三河国西尾城主:井伊兵部少輔直好より、また来たので六十枚に増やした。
それを相州小田原城主:稲葉美濃守正則が求め、天和元年(1681)正月鑑定に出したので、百枚に格上げとなった。正則は隠居の挨拶として、天和3年(1683)6月18日、将軍に献上した。その後、元禄10年(1697)には百三十枚となっているが、さらに宝永4年(1707)には二百枚に上がった。それで「継平押形」の押形にも、「二百枚極」と注記してある。
名物帳には「御物 朝倉(藤四郎) 銘有 長さ七寸九分 代金百枚 昔越前之朝倉左金吾芳景所持也。てん々して後青山大蔵殿所持にて代千貫也。慶安元に井伊兵部殿より来(た)り六拾枚に成。稲葉美濃守殿御求(め)、天和元(年)正月来(たり)百枚に代上り隠居(之)時上る。越前は斯波殿領国 之内也、然るに家来甲斐と申者主人を害して越前(を)領す。又甲斐を討(ち)同所を領す。義輝卿御時上洛す。御諱の一字を被下義景と号す、同時に左金五(吾)に被任也。」
形状は、平造、三ツ棟、内反り尋常の姿で、重ねやや厚し。地鉄は、小板目肌細かにつみ、一面に地沸細かにあつくつき、梨子地肌状となり、沸映り立つ。刃文は、直刃、小沸あつくつき、匂口しまりごころに、金筋入る。帽子は、小丸。茎は、生ぶ、先浅い栗尻、鑢目浅い勝手下がり、目釘孔一、目釘孔の下中央にやや大振りの二字銘がある。

朝倉義景は、孝景の子で越前朝倉家五代当主となる。孝景が40歳近くになって生まれた子で、義景が家督を継いだのはまだ少年期で、後見役だった朝倉宗滴もかなりの高齢であった。将軍:足利義昭を擁しながら上洛しようとせず、織田信長と争った時も後手にまわってしまう。武田信玄も信長包囲網の連携が取れず、怒りの書状を送っている。刀禰坂の戦いは朝倉家最後の合戦となり、義景は家臣たちに見捨てられ、一乗谷で自害するのである。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 7寸8分(23.5cm)
反り 内反り
元幅 6分1厘(1.85cm)
茎長さ 3寸6分(10.9cm)
茎反り なし

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