小豆長光(あずきながみつ)

  • 太刀 銘 長光 (号:小豆長光)

 

「小豆長光」は上杉謙信の秘蔵刀の名で、これはもと越後の百姓の所持で、ある日、山に行って雷鳴にあったとき、これを抜いて額にかざしたところ、それに落雷した。雷はそれで重傷を負ったとみえ、刀や着物にも血糊がべっとり着いていた。またある日、小豆売りに出かけたところ、袋の破れ目から小豆がこぼれて、鞘の割れ目から覗いている刃先に当たったとみえ、小豆は二つに割れていた。百姓のあとから歩いていた竹股(俣)三河守がそれを見付けて驚き、さっそく買い上げた。それを「小豆長光」と名付けたが、世人は「竹股長光」と呼んでいた。のち主君謙信に献上したという。ただし、「小豆長光」「赤小豆粥長光」との混同が十分考えられる。
しかし、小豆粒が刀の刃のうえに落ちただけで切れるだろうか、江戸幕府の講武所教授:窪田清音が実験したところでも、刀工:大慶直胤の意見を徴したところでも、それは不可能という結論になったので、アズキはナズキ、つまり頭を切り割ったから、解釈している。刀工の羽山円真も、死体の試し斬りで、頭を縦に切り割るのを「小豆割り」とよぶから、小豆長光もそうではないか、と推測している。そのほか、長光が小豆島で打ったから刀だから、とする説、謙信に川中島で切られた輪形月平太夫の姓をワズキとよみ、アズキはワズキの訛り、とする説などがあって、定説はない。
さて、謙信の有に帰したあと、謙信はこれを帯びて川中島に出陣し、武田信玄と一騎打ちを演じたし、また信玄の弟:左馬助信繁を斬って落とした。左馬助を唐名で典厩と称するので、それから小豆長光を「典厩割り長光」と改めた、との説もある。ただし典厩割りは備前三郎国宗ともいわれる。上杉景勝の代になってから、京都の方に拵えの製作と研ぎに出すことにした。出来上がってきたのを、元の持主:竹股三河守がみて、これは偽物と看破した。本物は鎺もと1寸5分(約4.5cm)ほど上、鎺地に馬の毛を通すほどの細孔が、表裏にぬけていたが、それにはなかったからである。三河守がさっそく上洛して、2尺8寸(約84.9cm)から3尺(約90.9cm)長さの長光が欲しい、と尋ねさせた。その声に釣られて持ってきたのが、正真の小豆長光だった。三河守はその奸商一味を奉行に訴えたのち、揚々と本物を担いで帰った。のちに豊臣秀吉に懇願され献上した。
のち大坂落城のさい、落武者がこれを持って、和泉か河内のほうへ逃げた。それで徳川方では、提出した者には黄金三百枚を取らせる、と触れさせたが、ついに出て来なかったという。明治維新後、黒羽(栃木県)の旧藩主:大関子爵家に、小豆長光とよばれる太刀が1振り伝来していたという。それが上杉家のものと同一物か、明らかでない。

「小豆欠け長光(あずきかけながみつ)」は上杉謙信の愛刀の異名であり、「本阿弥光悦押形」に所載してそれには、「長光」と二字銘の太刀の図を揚げ、「あつきかけ 長サ三尺五寸八分 うさみとのより」と注記してある。謙信の愛刀、小豆長光や竹股(俣)兼光に、硬い赤小豆の実が刀の刃に直接に当たってそれが二つに割れた、という伝説があるから、「あつきかけ」は、赤小豆欠け、という意味であろう。なお、「うさみとのより」は、上杉家の重臣「宇佐美殿より」という意味である。

「赤小豆粥(あずきがゆ)」は上杉謙信の愛刀の異名で、これには相州行光説と備前長光説とがある。
相州行光説 天文16年(1547)10月19日、川中島の戦において、謙信は、長尾家重代とされる赤小豆粥と呼ばれていて、相州行光作、3尺1寸(約93.9cm)、黄金造り、丸鞘の太刀を揮って、武田勢を斬りまくったという。謙信の愛刀としては、赤小豆粥・竹股(俣)兼光・谷切り来国俊などの三腰、またはそれに波平行安を加えた四腰があったという。
備前長光説 刃長2尺5寸(約75.8cm)、赤銅造りの太刀で、これをもって天文22年(1553)霜月28日、武田信玄の弟:信繁を斬ったとも、同23年(1554)8月10日、信繁を斬るとともに、信玄にもこれをもって斬りかかったともいう。
赤小豆粥とは赤小豆を入れて炊いた粥で、これを食べると一年中、病気をはらうというので、正月15日に食する風習があった。病気をはらうという、意味で、謙信が刀の異名にした、と考えられないこともないが、少しく適切を欠く。「本阿弥光悦押形」を見ると、備前長光の押形に、「あつきかけ 長サ三尺五寸八分 うさみとのより」と注記がある。「あつきかけ」の「け」は、変体仮名の「希」の字になっている。その字形が「ゆ」に似ているので、「かけ」を「かゆ」と誤読したことも考えられる。謙信の愛刀である小豆長光や竹股(俣)兼光でも、硬い小豆の実が刀の刃に直接に当たって二つ割れた、という伝説になっているから、「かけ」は「欠け」で、小豆が欠けた、という意味に採れる。
赤小豆粥には、激戦のあとを物語る切り込みも残り、江戸期にはなお上杉家にあったという。しかし、明治維新後、同家には伝来していなかった。

小豆割りとは、死体の試し斬りの部位の名で、頭部だけを正面から縦に切り割ること。眉間割り・真向うともいう。さらに胴体まで切りさげたら、「あずき唐竹(割り)」という。古語でナズキは脳のこと、東北の方言では額のことであるが、江戸では頭のことを指していた。「東海道中膝栗毛」でも、「なづきやあ、あがり申さない」と遣われている。

典厩割とは上杉謙信が川中島の戦において、武田信玄の弟:左馬助信繁を斬った刀で、典厩とは左右の馬寮の唐名となる。刀の作者については異説がおおく、備前長光説では、「赤小豆粥」と異名のある2尺5寸(約75.8cm)、赤銅造りの太刀だった。柄は茶色の糸巻きで、1尺(約30.3cm)ほどの手貫き紐がついていたともいう。

太刀 銘 長光 (附)打刀拵 重要美術品
刃長 二尺四寸四分 昭和12年12月24日認定 認定時所有者 東京・上杉憲章
「鑑刀随録」「日本の名刀」所載
生ぶ茎腰反り高く踏張り強い堂々たる姿である。鍛え板目よく約み、地景入り、地沸細かにつき、乱映り立つ。刃文匂出来で、下半は華やかな丁字乱、下半は小模様な丁字乱、足、葉入りる。謙信公指料として上杉家に伝来したものである。

「上杉家宝物台帳」
拵ハ柄塗鮫皮巻 頭角 縁赤銅魚子金竜銀縁 目貫金竜 鐔赤銅魚子金竜両面二ツ宛銀覆輪 切羽金 鎺一重銀両面金日月 小刀銘楽泉 小柄赤銅魚子黒竜 笄赤銅魚子金竜 鞘黒塗 鵐目金 下緒紫糸 袋鼠色緞子 謙信公御指料御重代三十五腰ノ内

「上杉家刀剣台帳」
乾六号 銘文等:太刀 長光(長船) 号銘等:(記載なし) 刃長:二尺四寸四分 外装:打刀拵 景勝公御手選:御重代 三十五腰の内
指定月日等:重要美術品(打刀拵附) 昭和十二年十二月二十四日 備考:謙信公差料

乾第六号
一 備前長光刀 白鞘
長光 両面棒樋
長 弐尺四寸四分
拵 塗鮫革巻角縁赤銅魶子金竜玉縁銀目貫金竜鍔赤銅魶子金竜両面弐ツ宛銀覆輪切羽金鎺単銀両面金日月小刀銘楽泉小柄赤銅魶子黒竜笄赤銅魶子金ノ竜鞘黒漆鵐目金下緒紫糸袋水色純子
但拵ハ五番箪笥二ノ段ニ蔵置
御由緒 「○」 謙信公御差料、御重代三十五口腰ノ内、
刀剣四番桐塗箪笥 壱ノ段

佐藤寒山先生鞘書
「所伝不識庵謙信所佩愛刀之一而世弥小豆長光永伝上杉家終戦後出於同家者也 万為珍重者也」
「昭和三十四年仲秋吉日於芸州広島城下 寒山」

「小豆長光」については、「小豆長光」「小豆欠け長光」「赤小豆粥」「竹股長光(兼光とも)」「典厩割(兼光・国宗とも)」など様々な異名があり、刃長も種々に及び、伝来や来歴に混同や重複があるといわれいる。いずれの太刀が真の「小豆長光」であったのか、また現存しているのかは定かではない。

(画像:上)「本阿弥光悦押形」に所載する「小豆欠け長光」
(画像:中・下) 佐藤寒山先生鞘書に「小豆長光」と記された太刀(重要美術品)

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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