備前信房(びぜんのぶふさ)

  • 位列:古刀最上作
  • 国:備前国
  • 時代:平安時代末期 元暦頃 1184-1185年頃

 

備前信房は同名が二人いて、一人は古備前派、一人は古一文字派といい、古備前派は「信房」と二字銘、古一文字派は「信房作」と三字銘であると古来いわれている。また、「信房」二字銘のものがより古雅であることから年代が遡るとされ、「信房」二字銘と「信房作」三字銘は同人で信房は一人とする説もある。
銘鑑では、一文字信房は延真の子であるが、後鳥羽院御番鍛冶御奉仕、長原権守と称し、粟田口久国とともに日本鍛冶宗匠を賜るという。承元ころ。
備前信房は、国宝:1振、重要文化財:4振を輩出している。なかでも、国宝に指定される太刀は酒井忠次が天正12年(1584)、徳川家康・織田信雄と豊臣秀吉が戦った、小牧長久手の戦いで戦功をあげ家康から授けられたもので、爾来、庄内藩主酒井家に伝来した。

太刀 銘 信房作 致道博物館蔵
長さ:2尺4寸8分8厘強(75.4cm)、7分9厘強(2.4cm)、形状は、鎬造り、庵棟、細身で腰反り高く踏張りつき、小鋒の太刀である。鍛えは、小板目つみ、地沸が厚くついて、乱れ映りが僅かに立ち、所々に湯走りがある。刃文は、浅いのたれ調に小乱れと小丁子が交じり、足・葉頻りに入り、沸強くつき、上半は刃幅が広くなる。帽子は、焼深くよく沸えて表小丸風、裏掃きかける。茎は生ぶ、雉子股形、先浅い栗尻、鑢目切、目釘孔二、佩表の目釘孔の上棟寄りに「信房作」と三字銘がある。糸巻太刀拵が附帯する。
この太刀は小乱れを主体にして丁子を交える古調の刃文を焼いた古雅な出来であるところから古備前信房として指定されていたが、近年、二字銘信房の新資料の発見にともない再検討されており、古来の伝えのように一文字の信房であるとの見方が強い。

酒井忠次は三河武士団の重鎮にして徳川四天王の筆頭にあげられる。三河松平家は、新田義貞の末裔:徳阿弥が、当時三河の有力国人であった酒井家の娘を娶って興したと伝承されている。それゆえ酒井家は譜代の重臣であると同時に、松平家の縁戚筋だった。忠次自身も家康の祖父:松平清康の娘を娶っており、義叔父でもあった。家康が三河一国を支配するようになると、忠次は重鎮として東三河筆頭となった。忠次は典型的な三河武士で、戦場では辛抱強い行動ができた。長篠の戦いでは悪天候の中、奥三河山中を夜間進軍して武田軍の背後の鳶巣山砦を強襲するなど三河武士ならではの戦功を挙げている。一方で、外交交渉はいたって不器用であった。家康の妻:瀬名姫と長男:信康が武田家への内通を疑われた際、大久保忠世とともに安土の信長に弁明に向かったがまったく弁明できず、結局信康は自刃した。信長死後の信濃進出も、忠次は信濃の諸大名も調略できず、力押しに頼らざるを得なかった。

庄内藩酒井家は、姫路藩主酒井家と同族で、姫路の系統を雅楽頭酒井家といい、庄内の忠次の系統を左衛門尉酒井家と称した。忠次の子:家次は下総臼井三万石へ封ぜられ、その後越後高田十万石へ、家次の子:忠勝が信濃松代十万石をへて庄内へ入封した。当初十三万八千石が、寛永9年(1632)、十四万石余に加増された。幕末の庄内藩は、慶応2年(1866)、公武合体派が藩内の抗争に敗れ、佐幕派が藩の大勢を占めた。翌年、庄内藩兵1,000人を主力とする諸藩兵が、江戸の薩摩屋敷を焼き討ちした。戊辰戦争では奥羽列藩同盟に参加するが、明治元年(1868)9月26日、奥羽征討総督に軍使を派遣し降伏した。元治元年(1864)、庄内藩は十六万七千石に加増されていたが、降伏により十二万石に減封された。会津若松、磐城平へ転封が命令されたが、七十万両を献金することと引きかえに、取り消された。その金は本間家の五万両はじめ、上級藩士、豪商、大地主らにより醵出され、明治3年までに三十万両が明治政府に献納された。残り四十万両は免除されたという。鶴岡城址は内堀と石垣に名残をとどめ、城址の西隣りに酒井家御用屋敷の建物が到道博物館になっている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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