童子切安綱(どうじぎりやすつな)

  • 指定:国宝
  • 太刀 銘 安綱 (名物:童子切)
  • 東京国立博物館蔵
  • 長さ 2尺6寸4分7厘(80.2cm)
  • 反り 8分9厘(2.7cm)

 

 

童子切安綱は伯耆安綱作の太刀で「享保名物帳」に所載する。「三日月宗近」・「鬼丸国綱」・「数珠丸恒次」・「大典太光世」と並び天下五剣と称せられている。源頼光が丹波国大江山の酒呑童子という鬼を斬った、という伝説によって、「童子切」の異名がついた。古剣書では、初め坂上田村麿呂が伊勢神宮に奉納しておいたものを、源頼光が夢想によってもらい受け、酒呑童子という鬼を切った、となっている。昔は童子切の物打ちには鬼のかみついた痕がある、といっていたが、現在は見当たらない。一説によれば、室町幕府の評定衆:摂津家に古くから伝来していた。摂津家が衰微すると、日野家に仕えていたが、さらに都落ちして、摂津与一の時代には、越前福井城主:松平忠直に仕えていた。童子切が将軍家の有に帰した訳は不明という。他の説では、足利将軍義輝から織田信長・豊臣秀吉をへて、秀吉から徳川家康に贈り、二代:秀忠が継承したという。
古剣書の説では、秀忠の三女:勝姫が、慶長16年(1611)、松平忠直に嫁したとき、秀忠が守り刀として、輿に入れてやったとも、婿引き出として忠直に贈ったともいう。ところが、津山松平の所伝は以上と全く異なり、しかも二説ある。一説によれば、忠直の父:秀康は徳川家康の次男で、天正18年(1590)、下総結城城主:結城晴朝の養子となったとき、結城家伝来の伯耆安綱を譲られたといい、それが童子切であろうという。
他の説では、家康から秀康がもらい、子の忠直に譲った。忠直はそれを夫人:勝姫の守り刀として預けておいたという。鞘書に、表「童子切 弐尺六寸五分」、裏「鎺元にて壱寸 横手下にて六分半 重ネ厚さ弐分」とある。これは勝姫の筆跡だろうという。勝姫の守り刀というのも、実は、忠直が乱行の故をもって、元和9年(1623)、豊後に流罪になったとき、嗣子の光長はわずか9歳だったので、お家第一の宝刀は、母の勝姫の預かりになったのだろう、という推測もされている。
津山松平家の伝承によれば、光長がまだ幼少のころ、夜な夜なうなされて泣くので、医療はもとより、社寺の護符なども申し受けてみたが、一向に効験がなかった。ある者の発案で、童子切を枕許に立てておいたところ、その晩から夜泣きは、ぴたりと止んだという。童子切は狐憑きを治す、という迷信は、これから発生したものであろう。さて光長は、父が流罪になると、越後高田城主に移封となった。大村加卜はその光長に仕えていたので、童子切をたびたび拝見できた。それで、その鍛法まで詳しく「剣刀秘宝」に書き遺している。
光長も越後騒動を引き起こし、天和元年(1681)、伊予の松山へ流された。貞享4年(1687)赦免となり、江戸に帰ってきたが、童子切は手入れする者もいなかったので、胡麻錆が生じていた。それで研ぎのため、本阿弥家に預けておいた。本阿弥家の話では、童子切が上野広小路同家にきた朝、多くの狐が神田の筋違い橋のほうから、上野谷中のほうへ移動した。それは童子切が来たからだろう、と噂になったという。同じ松平家の名物:石田正宗が童子切と一緒に本阿弥家にきた。一同それを見て、童子切が石田正宗よりいいと、賞賛を惜しまなかった、という。
松平家の伝説では、本阿弥家に預けてあったころ、隣家に火事が起こった。すると、本阿弥家の屋根のうえに白狐が一匹あらわれ、転んだり起きたり、苦悶の態だった。本阿弥家のものがそれを見て、あっ、まだ童子切持ち出していない。狐はそれを知らせているんだ、と思いついた。童子切を急いで持ち出したところ、白狐は姿も影もなくなったという。
光長の養子:長矩にお家再興を許され、元禄11年(1698)、作州津山城、十万石を賜った。童子切りは以来、同家の重宝になった。そのころ、町田長太夫という試し斬りの名人に試させたところ、六つ胴・敷き腕にして、土壇まで切り込むすばらしい斬れ味であったという。
昭和8年、国宝となり、津山松平家の重宝になっていたが、終戦後、同家をでた。昭和38年、文部省が2600万円で買いあげた。
童子切には、糸巻太刀拵がついている。その金具の紋が五七の桐になっているのは、松平家に入る前の製作だからである。刀箱は二重になり、内外とも表に「童子切」と、金粉で書いてある。内箱が青い紋散らしになっているのは、松平家に入ってからの製作だからである。

作州津山松平子爵家の刀剣台帳である「御宝剣 御拝領 御由緒 三品御腰物帳」の初めに童子切安綱は記載されている。
童子切 一名鬼切 安綱御太刀
長サ弐尺六寸五分 佩表目貫穴之上 安綱ト二字 目貫穴二ツ 伯耆国会見郡大原住 大原太郎ト号
孝謙天皇ノ天平勝宝元生 嵯峨天皇ノ弘仁ニ死 六十三歳 天平勝宝元ヨリ 文化十一年迄 千六十六年ニ及フ
御鞘書 童子切 弐尺六寸五分御鎺元ニ而壱寸 横手下ニ而六分半 重ネ厚サ弐分 御白鞘 御袋紺地 金織葵御紋散シ 紐紫組御装 御膝纏下 地銅金着 縦篠鑢
大御切羽 烏金 魚子金ニ而 五三ノ桐御紋ノ置紋
中御切羽 烏金 縦割 二枚
小御切羽 金無垢 小割四枚
御鐔 地烏金魚子 木瓜形 覆輪金
御縁 御鞛金物 柏胴金 石衝 共ニ地烏金魚子 金ニ而五三ノ桐御御紋ノ置紋
御目貫 地烏金 金ニ而五三ノ桐御紋ニた繋キ
御柄糸 下鞛間糸下 御太刀緒 帯執付ケ共 紺地錦
御太刀緒 啄木
御鞘 金梨地
御柄御鐔 大切羽・中切羽・小切羽ノ品々 浅黄御服紗 二ツ二包ミ有り是之
御鞘袋 茶緞子 紐紫組
内箱 梨子地 葵御紋金 貝粉ニ而付ケ 交セ散シ 尤御箱蓋ニ金粉ニ而 童子切と記有之
紐付金物銀 紐紫打緒
御刀掛 金梨地
御箱外裏 縹地緞子 紐萌黄
御伝来書 一通
外箱溜塗 但蓋ニ童子切ト記シ有之

「名物帳」には、松平越後守殿 童子切安綱 銘有 長さ弐尺六寸五分 不知代
丹州大江山に住す通力自在之山賊を源頼光公此太刀にて討し故と申伝(える)也。秀忠公御物。
高田様越前へ御入輿の刻三位宰相忠直卿へ被進、御長男光長卿へ御伝へ也。極上々之出来、常の安綱に似たる物にあらず。石田と一所に一覧申。格別に正宗をとりたり。同苗一同に同意也。広小路三郎兵衛宅へ来る日朝より筋違橋辺より狐多くでて上野谷中道に行(く)と。考(える)に右童子切来りける故かと申也。

形状は、鎬造、庵棟、腰反り高く、踏張りつき、中鋒。鍛えは、小板目に杢交じり、よく錬れるが肌目は立ち、地沸よくつき、細かな地景入り、地斑映り立ち殊に佩表は暗帯が高くかかり頻りに鎬地に至る。刃文は、元を焼落として直ぐ調に小乱れ・小丁字ごころ・小互の目交じり、足・葉よく入り、匂深で刃中厚く沸づき、砂流し・金筋・島刃など入り、打のけ・湯走りかかり、佩裏腰より上から中程にかけてやや小互の目めだち、下半は表裏とも沸凝ってうるみごころを呈す。帽子は、表は直ぐごころに少しのたれて先小丸ぎみに僅かに返り、裏は掃きかけて焼詰め風となる。茎は生ぶ、先栗尻、鑢目切り、目釘孔一。

伯耆安綱は古伯耆を代表する刀工で、銘鑑では大同頃の人と伝えているが、実際にはそれより年代が下り、三条宗近などとほど同時代で、平安時代後期の人といわれている。安綱は古伯耆の中では在名作が比較的に多く現する。安綱の太刀姿は腰反りが高く優美であるが、古備前物に比して先に行っての伏ごころがさほど目立たないところに姿の特色がある。地刃の作風は、鍛えは板目が肌立って地景・地斑を交え、地沸が強くつき、刃文は小乱れを主調に小互の目・小のたれなどが目立って交じり、厚く沸づき、刃中砂流し・金筋などを織りなして働きが豊富であり、多くは区際を焼落としており、古備前派などとはやや趣きを異にするものがある。銘は「安」の字よりも「綱」の字が大きく、しかも「綱」の字を一寸右によせて鐫るのが手癖である。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺6寸4分7厘(80.2cm)
反り 8分9厘(2.7cm)
元幅 9分6厘(2.9cm)
先幅 6分6厘(2.0cm)
元重ね 2分1厘(0.65cm)
先重ね 1分3厘(0.4cm)
鋒長さ 1寸2厘(3.1cm)
茎長さ 6寸7分弱(20.2cm)
茎反り 僅か

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