骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)

  • 指定:重要文化財
  • 脇指 無銘 粟田口吉光 (名物:骨喰藤四郎)
  • 豊国神社蔵
  • 長さ 1尺9寸4分(約58.7cm)
  • 反り 4分7厘(1.42cm)

骨喰藤四郎は粟田口吉光の作で、南北朝期の延文のころ、足利尊氏が九州落ちしたとき、豊後の大友氏時が献上した、とする説は誤りで、建武3年(1356)、尊氏が九州落ちしたとき、大友家から献上した、とする説の方が史実にかなう。しかし、尊氏が九州に着き、多々良浜の合戦に臨んだとき、「御重代の骨食」を帯びていたという。すると、大友家伝来でなくて、足利家伝来だったことになる。

尊氏が帯びていたとすれば、太刀だったことになるが、のちの将軍:足利義尚が長享元年(1487)9月12日、六角高頼を討伐するため、江州坂本に出陣したとき、小者に「御長刀ほねかみと申す御重代をかつ」がせていた。骨かみは骨喰みに違いないから、当時はまだ薙刀だったことになる。

つぎに、京都所司代の多賀豊後守高忠が所持していた、との説もある。高忠は永禄8年(1565)5月19日、松永久秀が将軍:足利義輝を二条館に囲んで殺したとき、いっしょに討死にしたので、骨喰は久秀に分捕られたという。しかし、高忠はそれより80年も前に死去しているので、この説は誤りである。やはり久秀が将軍:義輝を殺して、奪取したものである。

その話を伝えきいた九州探題の大友宗麟は、さっそく毛利鎮実を支社として、骨喰の返還を申し入れた。久秀はしぶしぶ承諾せざるを得なかった。何しろ錦繍・厚板織・巻紙・金銀など、金額にすれば三千両にもなろう、という豪華な土産物を持ってきたからである。薩摩の島津家の攻撃のまえに、風前の灯だった大友家は、天正15年(1587)、豊臣秀吉の島津征伐によって、危うく滅亡を免れた。千利休から骨喰のことを知った秀吉は利休を使者にして、宗麟の嗣子・大友義統から、骨喰を召し上げた。その時は、大友家で薙刀をすり上げ、すでに大脇差になっていた。

大坂城では刀箱の一之箱に納められ、腰物帳でも筆頭にあげられている。いかに秀吉が重視していたかがわかる。本阿弥光徳は石田三成の需めにより、天正16年(1588)極月、骨喰の押形をとっている。すると、秀吉が大友家から召し上げたのを天正17年(1589)3月とする説は、誤りでなければならない。打ち刀拵えの金具は、埋忠寿斎が作ったが、同時に中心尻を7分(約2.1cm)ほど切りつめた。彫物もむらがあったので、寿斎が手まめに直した。
光徳刀絵図において骨喰藤四郎の押形は各々に少しく差異がみられる。石田本(天正16年)では龍の顔が他とやや異なり梵字がない。毛利本(文禄3年)では既に茎尻が切り詰められ目釘孔が2個であるのに対して、大友本(文禄4年)では茎が切り詰められる前で目釘孔は3個となっている。

元和元年(1615)大坂城が落ち、豊臣家が滅ぶと、骨喰も焼失したとか、あるいは秀頼の茶坊主が盗み出してはみたものの、売ろうとしても、骨喰ときくと恐れをなし、買い手がつかなかったともいう。しかし、それらは誤伝である。実は、冬の陣のとき、木村重成が佐竹義宣の陣をおそい、殊勲をたてたので、豊臣秀頼は感状とともに、骨喰を重成に与えた。

つぎの夏の陣で、井伊直孝の軍とたたかい討死にすると、骨喰は分捕られて、徳川家康のもとに届けられた。家康はそれを見て、秀頼より拝領の骨喰をさして討死にするとは、屍の上の面目というものだ、と感じ入った。本阿弥光室はその声を聞いていたという。

しかし、これには異説がある。秀頼から感状とともに、相州正宗の刀と脇差を与えようとしたが、勝利は家来たちの奮戦があったればこそで、それに討死覚悟の身に、なんで褒美などいりましょう、ときっぱり断ったともいう。なお、上州館林城主:秋元家に、差し表に「洛陽堀川住藤原国広上之」と切りつけ、表に「道芝露 木村長門守」、と金象嵌の入った刀が伝来していた。これが重成の討死のときの佩刀、という説があるが、国広の磨り上げ銘は偽銘であった。

もっとも信用してよさそうな説としては、落城ののち、阿州(河州の誤り)の農民が拾ってき、将軍秀忠にさし出したとも、あるいは、落城ののちお堀から出てきたと、町人が本阿弥光室のもとに持ち込んだ。錆が入り始めていたが、見ると骨喰だった。びっくりして徳川家康にみせたとも、重成が討死したとき、井伊家の家来が佩刀を分捕り、光室に売りにきたとも、あるいは分捕った井伊家の家来が、京都の七条の某寺において、本阿弥光栄に売りつけた。それを本家の光室が二条城に持っていって、家康に見せたともいう。

家康は、長くて重い。わしの差料にはならぬ。大名にでも高く売るんだね、と言ったあと、まず将軍に見せてからにしろ、と付け加えた。それで伏見城にいた将軍秀忠に見せたところ、秀忠が買い上げてくれた。落城してから10日ほど経ってのことだった。ご褒美は白銀千枚とも、銀三十枚とも、黄金十枚とも、金百両とも、黄金五百両・銀二千両ともあって、諸説紛々である。

名物帳には「御物 骨喰(藤四郎) 磨上 長さ壱尺九寸六分 無代
昔の大友の長刀也。尊氏公鎮西御下向の時に誓詞御味方に参(り)候時上る。骨喰と申(す)子細はたはむれに切(る)まねを致(す)にも先の者骨くだけ死する故名付る。段々不思議成事数々有。後大内に有之、其刻刀に直す。長刀直し。表(の)本(の)櫃之内に倶利伽羅、裏櫃之内に梵字其下に不動有之。段々将軍家へ伝り秀吉公御物に成(る)、秀頼公へ御伝(え)、大坂落城の刻失る。其後御城之堀より出し(候)由にて町人皇室方へ持参仕候間差留、早速に二条御城へ致持参、家康公へ奉入御覧に、以(て)之外御喜悦に被為思召候。然れとも寸も長(く)重く候間御指には難被成由、就上意伏見へ致持参、秀忠公へ奉入御鑑候之処に御意に応(じ)御指に可被遊旨にて白銀千枚拝領仕る。今焼直しに成て御城に有之。」

明暦3年(1657)正月、江戸城炎上のさい骨喰も焼け身になった。将軍家ではお抱え鍛冶の越前康継(三代)に焼き直させた。その後、紀州の徳川家が拝領していたが、明治2年7月、再び大徳川家に返還された。京都の豊国神社は、徳川家康によって取り潰されていた。明治元年、明治天皇のご沙汰によって、再建されることになった。将軍家の後継者である徳川家達は、骨喰に金百円をそえて寄付した。再建は国営だったため、骨喰も国有だったが、大正の末年、豊国神社に下賜され、大正14年4月、国宝に指定、戦後は重要文化財になっている。

もと薙刀で、刃長も1尺9寸5分(約59.1cm)あったが、康継の焼き直しにより、1尺9寸4分(約58.8cm)に短縮された。鵜の首造りで、差し表は広い櫃のなかに、剣巻き竜の浮き彫り、裏は同じく櫃のなかに不動明王の浮き彫りと、梵字がある。不動明王の上にある梵字の「ベイ」は毘沙門天をあらわしており、四天王の一人である多聞天の独立一尊の場合に呼称される。刃文は焼き直し前、もと小乱れ、さき直刃となり、鋩子は尖り、尋常に返っていたが、焼き直し後は、直刃ほつれに変わっている。中心は、薙刀を脇差に直したさい、切除されているが、残った中心の長さから見て、もともと無銘だったはずである。本阿弥家では、これを粟田口吉光の作と極めている。

骨喰藤四郎は大坂城落城のさいは戦火に巻かれることを免れ、その後、将軍秀忠が入手して徳川将軍家の蔵となる。将軍家よりの命であったのであろうか将軍家お抱え鍛冶であった越前康継(初代)の忠実な骨喰藤四郎写しが遺されており、現在は東京国立博物館蔵となっている。この脇指は長さ:1尺9寸2分強、反り:5分5厘、茎長:5寸、茎反:なしで、銘文は表に「(葵紋)以南蛮鉄於武州江戸越前康継」裏に「骨喰吉光模」とある。この写しは焼ける前のもので、出来も見事であり、骨喰藤四郎の焼ける前の作風を知る上でも貴重といえる。「模」は「かたどる、手本とする」を意味する。佐藤寒山先生は慶長末年から元和初年頃の作と評されている。なお、明暦3年(1657)に焼け身となった骨喰藤四郎の本歌は三代康継の手により焼き直しが行われた。

骨喰みとは、古名刀の異名で、骨食・骨啄・骨喰丸・骨噛みとも書く。骨喰みという語源については、戯れに切る真似をしただけでも、その相手はからだの骨が砕けてしまうからであるとも、刀で切られてしまうと、まるで骨を縫い綴ったような激しい痛みを訴えるからとも、或いは、「骨噛み」という異名の別称からみて、この刀で切られると、骨を噛み砕かれるような大きな痛みを感じるからとも諸説がある。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 1尺9寸4分(58.7cm)
反り 4分7厘(1.42cm)
元幅 1寸1分(3.46cm)
先幅 7分8厘(2.37cm)
元重ね 3分(0.92cm)
先重ね わずか(0.1cm)
茎長さ 5寸5厘(15.3cm)
全長 2尺4寸9分(74.2cm)

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