加州清光(かしゅうきよみつ)

  • 古刀中上作
  • 業物
  • 加賀国 (石川県-南部)
  • 室町時代後期 永正頃 1504-1520頃

 

加州清光は加賀の刀工で、藤島系に属し、初代を宝徳3年(1451)没、84歳とある古剣書もあるが、年紀のあるのは明応(1492)からである。中心尻の左側のみを削ぐ片山落は加州物全体の特徴であって、その源は大和国の尻懸則長にあるという。石川郡泉村つまり現在の石川県金沢市泉町居住という。その子孫は安土桃山時代、越中の守山つまり現在の高岡市守山、さらに富山城下へと移ったが、江戸期になると金沢の笠舞に戻ってきた。しかし平和な時代に刀の注文もほとんどなく、貞享(1684)ごろの長兵衛清光は、加賀藩の建てた乞食小屋に収容されたほどだった。そのため乞食清光と呼ばれた。刀鍛冶は幕末まで継承した。作品の位列はいずれも低いが、切れ味は「業物」の部に入っている。

乞食清光は長兵衛清光の異名で、金沢藩は、寛文9年(1669)の大凶作で、乞食になるものが多かったため、翌10年(1670)、窮民に粥を与えるとともに、城南の笠舞村に収容所を建て、生活できない貧民を収容した。長兵衛清光が乞食小屋に収容された時期については、金沢藩にも記録がなかったが、延宝(1673)年間であろう。清光はそこで鍛刀したので、飯米を一日に七合五勺ずつ支給された。家族のうち、妻には二合五勺、男児には三合五勺ずつ支給された。

元禄元年(1688)には、長兵衛の子息で、次郎九朗と長右衛門の両人が収容されていた。注文があって鍛刀する際には、末弟の太郎も手伝いをしていた。享保5年(1720)の全国鍛冶改めのさいも、長右衛門とその子:長兵衛が、乞食小屋に収容されていた。銘に「於笠舞作之」と切ったものがそこで作刀したものという。その後についての記録はないが、乞食小屋から出ていたようである。

昭和42年、石川県金沢市笠舞町一丁目(加賀国石川郡石浦庄笠舞村)に記念碑が建てられた。墓は中央通町の浄照寺にある。
清光記念碑の碑文
「この地はもと笠舞村といい、寛文十年藩主前田綱紀がここに小屋を建てて領内の困窮者数千人を養った。これを御小屋または乞食小屋と呼んだ。刀鍛冶長兵衛藤原清光は名利の道に疎く窮乏の末、延宝年間にここに移った。
 彼は清光の六代目で歴代の中でも名工であり、藩主はその技倆を惜しみ度々鍛刀を命ぜられたが、彼もまた貧中礼節を忘れず、貞享四年に没するまで造刀に専念した。
 七代長右衛門もこの地で鍛刀し享保八年に没し、八代長兵衛は金沢城下に移り業を継ぎ子孫は明治に及んだ。
 ここに笠舞町第四土地区画整理の完成を記念し碑を建てて、この地の歴史と清光の名を永世に伝える。
昭和四十二年三月日 佐藤寒山書 上野剣峰撰」

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
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