古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)

  • 指定:国宝
  • 太刀 銘 豊後国行平作 (号:古今伝授の太刀)
  • 永青文庫蔵
  • 長さ 2尺6寸4分(79.9cm)
  • 反り 9分8厘(2.9cm)

 

細川家中興の祖:細川藤孝(幽斎)、室町時代末期~安土桃山時代の戦乱を生き抜いた武将で、足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、武芸に通じた武将として活躍する一方、有職故実・能・茶の湯などに関しても当代一の文化人として高い教養を示していた。特に歌道については「古今伝授」の継承者として尊崇された。「古今伝授」とは、和歌の規範である「古今和歌集」の語句の解釈に関する秘伝を、特定の人物に伝えることで、藤孝は三条西実枝より伝授され、藤孝から八条宮智仁親王へ、さらに智仁親王から後水尾上皇へと伝えられ、朝廷での御所伝授として受け継がれた。
慶長5年(1600)、石田三成の西軍と徳川家康の東軍が天下を争った関ヶ原合戦、細川家は東軍につき、藤孝の嫡男:忠興は家康の上杉征伐に出向く。手勢の少なくなった藤孝の居城:田辺城(京都府舞鶴市)は、石田三成の大軍に包囲されてしまう。古今伝授の断絶を恐れた智仁親王は後陽成天皇を頼り、三条西実枝、烏丸光広らを天皇の勅使として合戦の最中である田辺城へ派遣し、勅命によって講和が実現された。その際、藤孝が記念として烏丸光広に贈ったのが「古今伝授の太刀」だった。
「古今伝授の太刀」は烏丸家から親戚の中山大納言家に託され、昭和初期に売りに出された。細川家16代当主:細川護立公も入札したが落札できず、業者の手に渡った。後にその業者が売る必要に迫られていると聞き、護立公が一万三千円で購入した。「古今伝授の太刀」の名を耳にしてから40年以上たって、ようやく手に入れることができたのだった。「自分としても先祖に対してこの一刀を得て、真に言ふべからざる喜びを感ずるのである」と護立公は語っている。

形状は、鎬造り、庵棟、腰反り高く踏張りがあり、小鋒の優美な姿の太刀である。鍛えは小板目肌に柾交じって細かく約み、微塵な地沸が厚くつき、刃縁に湯走りかかり鉄味は柔らかくねっとりとして潤いがある。刃文は小乱れで、殊にこまかな小沸深く煙り、砂流し・金筋かかり、腰元で大きく焼き落としている。帽子は表が掃きかけて焼詰となり、裏はわずかに返る。彫物は表裏に棒樋を掻き流し、櫃内の腰に表は2つの種子(不動明王:カーン)(観世音菩薩:サ)と倶利伽羅竜、裏には種子(毘沙門天:バイ)と不動明王らしき像(梵字との相関から毘沙門天の可能性もあり)を重ね、種子は陰刻、倶利伽羅竜と立像は浮彫りしている。茎は生ぶ、雉子股形、先栗尻、鑢目筋違、目釘孔二(内一ツ埋める)、佩裏の棟寄りに「豊後国行平作」と銘がある。

「古今伝授の太刀」を明治まで秘蔵してきた烏丸家は、室町初期、藤原氏の分流:日野豊丸が、京都烏丸に邸宅をかまえ、烏丸姓を名乗ったのが始まりである。それから五代目を光広という。蔵人頭・参議をへて、左大弁になった慶長14年、31歳の時、猪熊事件に連座して免官の身となった。
猪熊事件というのは、慶長年間、近衛少将の猪熊教利は、天下一の美男と謳われ、その髪型や服装は、猪熊様(よう)と呼ばれ、京都婦女子の憧れの的となっていた。それを武器にして、官女たちと密通していることが、慶長12年発覚、勅勘をうけて出奔したが、依然京都に潜伏、官女と非行を重ねていた。ところが、同14年7月、一たび性の歓びを知った広橋典侍ら官女たちは、典薬の兼康備後に世話をたのみ、烏丸光広ら数名の公家衆らと、密通していることが発覚した。それらを知った後陽成天皇は激怒して、その処分を徳川家康に一任された。家康はただちに、九州の日向国(宮崎県)まで逃亡していた猪熊を逮捕し、兼康とともに死罪、女官5名と廷臣6名を遠島処分にした。光広と他の1名は無罪とした。しかし、天皇はこの2名にも、免官の刑を科した。光広はそれから2年後、勅免されて復職、権大納言にまでなり、寛永15年7月13日、60歳で、波瀾かつ多岐の生涯を閉じた。
烏丸光広は質性、豪放不羈、多くの逸話をばらまいた反面、多才多芸で、古今伝授をうけた和歌をはじめ、書画・茶道にも通じていた。著書も「黄葉和歌集」ほか、数種をのこしている。絵としては、和歌の先人たちの図に、自作の歌を添えたものが遺っている。細川藤孝より光広が受けたとされる古今伝授とは、「古今和歌集」の難解なところの解釈を、門弟に伝授することで、室町中期、宗衹が東常縁に伝授したのが、初めといわれている。
つぎに、中山家は藤原氏の末流であるため、江戸時代には食録二百石、大納言の極官、つまり大納言どまりという低い家格だったが、幕末には歴史上に名を遺す人が、多く登場している。その皮切りは中山愛親だった。寛政元年(1789)、時の光格天皇は、生父の閑院宮典仁親王に、太上天皇の尊号を贈ることを幕府に提言した。時の老中:松平定信らが猛反対した。同4年、幕府はこのことの首謀者を中山愛親・正親町公明の両名と睨み、江戸に召喚、両名に蟄居を命じた。それは3ヶ月で解かれ、花火線香に終わったが、尊王思想を高揚させる、という逆効果を生んだことは、効果大であった。愛親の曾孫:忠能は、安政の大獄で尊攘派が壊滅したことに鑑み、公武合体論として、和宮の江戸降嫁を図ったため、尊攘派から「四奸二嬪」の一人として攻撃されたこともある。のち薩摩・長州に対して、倒幕の密勅を下したのも、忠能だった。忠能の七男:忠光が、文久2年8月決起した。いわゆる天誅組の乱の首領に押されたことは一編の哀史に終わったが、尊攘運動を加速させる効果のあったことは否めない。忠光の母は、肥前国(長崎県)平戸、六万石の藩主:松浦清の女、愛子だった。同じく腹を痛めた忠光の姉:慶子は、明治天皇の生母となった。慶子は嘉永4年3月宮中に入り、孝明天皇に仕え、翌5年9月25日、17歳で祐宮、つまり後の明治天皇を出産している。最後は位、従一位をきわめ、明治40年7月5日、73歳で至福の生涯を終えている。

公爵中山家・大岡家所蔵品入札(目録) 昭和4年6月29日
(まず太刀拵え・刀身の全景写真を最初に掲げている)
三 幽斎所持 光広伝来
行 平 太 刀 銘 鬼丸
「銘 鬼丸」とあるが、それは拵えが、いわゆる鬼丸拵えという意味で、公称の鬼丸は、刀身が粟田口国綱の、いわゆる「鬼丸国綱」であって、「古今伝授の太刀」の行平を「鬼丸行平」とは言わない。
「古今伝授の太刀」は、鬼丸国綱を模して、鮫着せの柄を、こげ茶のしぼ革で巻き、その上に桐の壺笠目貫をつけ、茶色の糸で巻いてある。鐔は木瓜形の革鐔で、その上に鐔袋を着せる。鐔袋は、柄を包んだ革に縫いつけ、裏側で紐で締めつけるようになっている。鞘は柄をまいた革と同じもので、金具の上から包んである。足間も同じく革でまく。足には紫革をつけ、帯取りは黒い広東で包んである。
刀身は刃長二尺六寸四分五厘(約81.1cm)佩き表には、鎺もとの樋の中に剣巻き龍、上に梵字を彫る。裏には鎺もとの樋の中に明王、その上に梵字を彫る。樋は表裏とも彫物より上に延び、鋒に至って終わる。

(売立目録の次のページには、)
幽斎所持 光広伝来
行 平 太 刀
とあって、行平の中心と切先の写真がある。樋が中心まで掻き流された中に、「豊後国行平」、と銘を切ってある。平の字の左傍に、大きく目釘孔があけてある。切先まで樋は延び、小鎬いっぱいに掻いてある。

(次のページには、)
刀身用の刀箱と、拵え用の刀箱の写真が、表裏計4枚載っている。柾目の美しく通った刀身用の箱の蓋には、
鬼丸造 仲身 豊後国行平
と書かれ、その裏には次のように、「古今伝授の太刀」の由来が上下二段に分けて書かれている。
上段「長弐尺六寸四分半、樋之内、本ニ梵天明王、上ニ梵字。裏樋之内、本ニ剣巻真之竜、上ニ梵字之彫モノ有之、長銘也。明治二十六年癸巳六月審定、本阿弥長識」
下段「細川幽斎ハ文武両道の達人にして、最も歌道に通せり。慶長五年庚子役ニ、大坂方の為に攻られ、丹後の田辺城に籠れり。不幸戦死する事も有らバ、和歌古今伝授の絶へむ事を、朝廷深く嘆かせられ、烏丸光広を勅使として、田辺城に遣ハさる。幽斎即ち勅を奉じ、古今伝授を光広に相伝し、古来伝授の時、用ひ来りたる人丸の画像-掛物信実の筆、或ハ父信隆の筆とも云、行能の賛なり、及び香見台の二品を、共に相伝す。而して其引出物として鬼丸造大刀壱口-仲身豊後国行平の作、在銘、等を光広ニ与ふ。爾来右三品に幽斎由緒の品々、烏丸伯爵家に相伝の処、明治-廿七年、十二月、故あり、烏丸光亨より譲り受。(中山)孝麿」
鬼丸拵えの箱の蓋には、
太刀 豊後国行平 在銘 造鬼丸
と書かれ、その裏には、「古今伝授の太刀」の由来が書かれているが、刀身箱の由来書きと、ほぼ同文なので省略する。何故そんなことをしたのか、あるいは烏丸家から中山家へ譲渡のさい刀身拵えか、どちらかだけを譲渡、という話でもあったので、将来そんな場面でも想定して、両箱を同文にしたのかも知れない。業者の間では、刀身を拵えとを別々に、売ってしまうことは、珍しくない。

刀箱の蓋の裏に書いてあった人麿の画像は、行平太刀とは別口として、売立目録に、次のように記載されている。
幽斎所持 光広伝来
二 信実 人麿 行能賛
表具 一風 小牡丹金襴 中 茶地上代紗 上下 紋海気
竪:二尺八寸 巾:一尺五寸八分
同 嵯峨蒔絵香見台添
人麿とは、言わずと知れた柿本人麿。和歌史上の最高峰と目され、歌聖と仰がれ、さらに神にまで祀られている。その像を描いた信実とは藤原信実、鎌倉時代の似絵、つまり人物画の第一人者で、後鳥羽上皇が隠岐に護送される直前、その真影(国宝)を写し採ったことでも、有名な画家である。
似絵のうちでも、歌人を書いたのを、歌仙といい、人丸像がその代表となっていて、それにも、信実・岩屋の二流があるという。今回売立にでた信実筆の人麿像では、右手に筆、左手に紙を持っている。このポーズの人麿像を描いたのは、信実が元祖ではない。
平安中期、白河天皇の時代、藤原兼房(太政大臣)は歌道に通じ、特に人麿に傾倒していた。ある夜、人麿の夢をみた。さっそくその夢想の姿を、絵師に命じて描かせた。幾度か書き直させているうちに、夢想の姿に似てきたので、それを朝夕礼拝していた。兼房は余命いくばくもないと悟ると、それを白河天皇に献上した。
平安末期、鳥羽天皇の時代となり、時の修理太夫顕季は、その人麿像を天皇より拝借、画工:藤原信茂に模写させた。そして大学頭:藤原敦光に書いてもらった賛を画像の上部に清書してもらった。それを上段に掲げ、その前に飯・菓子・魚鳥をお供えする。そうしておいて、歌友の公卿たちをよび、酒宴を開いた。これが影供(えいぐ)つまり影像供養の濫觴となった。それで細川幽斎も歌の会のときは、この信実画幅を掲げていたものとみえる。
信実の筆になる人麿像は、右手に筆、左手に巻紙を持っている。これに対して、岩屋の人麿像がある。これは白川天皇のつぎ、堀河天皇のころ、天台座主だった行尊は歌人であるとともに、画筆を執った。人麿に憧れることも、人後におちなかった。ある夜、夢うつつに人麿の姿を見た。さっそくそれを彩管に写した。夢の場所が岩屋だったので、下に虎の皮を敷いた図になっていた。お尻が痛くないように、という優しい心根からだった。
もう一つ、「古今伝授の太刀」についていた添え物として、香見台があった。幽斎は風流人だった。香道の嗜みも深かったのであろう。古今伝授には関係なさそうである。ただ形見のつもりで、烏丸光広に贈ったものであろう。

一 万葉類聚古集 十六冊(国宝:龍谷大学蔵)

十七 元陳 幽斎像書讃 着色
竪:三尺六寸八分 巾:一尺六寸五分
泰勝院殿二位入道幽斎書㫖大禅定門
「古も今もかはらぬよの中に心のたねをのこすことの葉」

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺6寸4分(79.9cm)
反り 9分8厘(2.9cm)
元幅 8分9厘(2.69cm)
先幅 5分6厘(1.69cm)
鋒長さ 1寸(3.03cm)
茎長さ 5分8厘(17.6cm)

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