倶利伽羅江(くりからごう)

  • 短刀 銘 江(号:倶利伽羅江)
  • 長さ 8寸3分(28.2cm)

倶利伽羅江は郷義弘作の短刀で、刃長9寸3分(約28.2cm)、平造り。差し裏に、太い樋のなかに真の倶利伽羅を、浮き彫りにする。裏は不明。大きく乱れ互の目乱れとなり、玉を焼く。鋩子は尖り火炎風となる。裏の刃文は不明。中心はうぶ、銘は「江」と一字銘がある。

倶利伽羅江については、高瀬羽皐翁が誌された「英雄と佩刀」(大正元年刊)に詳しく、以下は同著よりの引用となる。
「明智の倶利伽羅郷」
前回に一寸と噂をした明智日向守光秀秘蔵の倶利伽羅郷という名刀のお話をいたそう、この刀は越前一乗谷(福井より山手一里余)の城主朝倉義景の家に伝わった刀で、身に倶利伽羅不動の切物があった、天正元年八月織田信長越前へ打ち入ってこの月の廿三日に義景生害されて朝倉家は滅亡に及んだ、その時重代の宝器多く散乱して所在が知れなくなったがこの郷の刀は朝倉の物奉行が旗にさし添えて逃げ出でたるを光秀その者を生け捕って横取りした、名高い刀であるから織田の諸将も之を聞いて羨ましく思った様子なれど信長は一向知らずに居た。
天正十年六月本能寺で主君を殺し、秀吉が織田信孝と共に山崎表へ打って登ると聞いて明智左馬助を安土城の留守居にやった、この時左馬助立腹して吾等は金の番に行くのは嫌だといった話がある、大切の場合に役に立つ家老を安土へやったのは光秀の落ち度に相違ない、果たして山崎で敗軍して小来栖の一本松で百姓の竹槍に懸かって死んだ、すると左馬助は安土の城を焼いて三百人計りで坂本の城へ行こうとするこの時早くも秀吉の先方堀久太郎が三千計りで大津の浜に控えて居た。
左馬助少し計り戦って手早く小船に乗って唐崎の松の下へ着いて坂本へ駆け込んだのである雲龍の陣羽織で湖水を乗り切ったなどと太閤記が出鱈目を書いたものだから、講釈師や歴史家も皆な真に受けた、左馬助はそんな馬鹿ではない光秀の妻子を敵に生け捕りにされては恥辱であるから坂本へ駆け込んだので大海の如き湖水を馬で渡り万一沈没したらどうする昔から左様な危険な事をする武士を猪武者といって笑って居る、そこで左馬助は城外へ押しよせた堀の先隊を見て櫓へ登り、久太郎殿へ申したき事の候ふと呼んだから堀監物が壕端近く立ち寄ると左馬助一礼して、右大臣様多年御集めに相成った天下の名物安土の天守より当城へ持参いたし置き候只今城に火を掛け一同自殺致すにつき天下の名物の一時に焼け失せん事いかにも残念に存じ候間御陣へ送り進らすべし羽柴殿へ御届け下されよと言いながら緞子の夜の物に包んで不動国行の刀、義元の左文字(宗三左文字)、藤四郎の脇差し(一説に薬研藤四郎とも)、楢柴の茶入等数十点櫓より縄で括って下ろした、監物之を受け取って見ると細かに目録が書いてある一々品数を改め久太郎の陣所へ送り再び壕端へ立ち出で明智殿に申したき事の候と呼ばわれば左馬助再び立ち現れた当下監物がいうには、御目録の通り相違なく受取り候、右の御道具の外に日向守殿御秘蔵の倶利伽羅郷の御刀はいかが遊ばし候やと尋ねた。
すると左馬助、久太郎殿を初め諸大名衆も御存知なさる通り郷の刀は朝倉殿の御道具に候、先年越前の国破れ候時、同家の道具奉行某大きなる旗を持たせ手に刀を捉って駆け出したるを日向守手にて生け捕りその者に金子を遣わし刀を取り置き候日向守常々此の刀は命もろ共秘蔵いたしたる儀なれば某この刀を帯びて死出の山にて追い付き相い渡し申す所存なりと言い切って狭間を閉じ程なく天守に火の手揚がり光秀の妻子を初め城中の者悉く自殺したれば久太郎下知して火を消させ焼け跡の刀は一々吟味したれど倶利伽羅郷の刀はない、さても如何にして取り隠したか先年大和の信貴山の城で松永久秀が自害した時定めて平蜘の釜があろうと人々争うて城内を捜したれど釜の破片もないそれと全く同じ様な隠し様とて評判になったれば太閤これを聞いて城内の井戸を探らせよと云う命令である、堀の手で数ケ所の井戸を浚って見ると果たして刀が出た、出たは出たものの已に腐って一向に役に立たぬ、僅かに三ケ月しか経たぬに斯く腐ったるは如何な訳かと云ふ詮議もあったれど已に廃物となって仕舞った。
郷義弘在銘の刀というものは一本もない某候家に短刀の在銘がある計りで、名物帳の郷いづれも朱銘、象眼銘、其他無銘である。
先年ある紳士が在銘の郷を手に入れたと聞いて、はて変だと思って西垣潜龍を頼んでわざわざ見にやったその返事が面白い。
拝啓先日の刀義弘には相違なく候ケ様に申し上げ候はば吃驚なさるべし、決して決して御驚き御無用千手院義弘在銘二尺二寸、代価は三百五十圓の由に御座候敬具呵々

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 8寸3分(28.2cm)

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