物吉貞宗(ものよしさだむね)

  • 指定:重要文化財
  • 脇指 無銘 相州貞宗 (名物:物吉貞宗)
  • 徳川美術館蔵
  • 長さ 1尺0寸9分(33.0cm)
  • 反り 2分(0.7cm)

 

 

物吉貞宗は相州貞宗作の脇指で「享保名物帳」に所載する。享保名物帳には、徳川家康の秘蔵で、切れ申すことがたびたびだったので、「物吉し」という刀号を名付けたという。尾州徳川家九代:宗睦が、家臣の松平君山や久野彦八郎に書かせた「物吉記」に、百事吉祥と言うがごとし、あるいは「続岩淵」に、家康はこれを差料にしていると、何事も思召しのままになったから、とある説明のほうが妥当である。家康が戦場にこれを帯びていったことは、「三河戦記」にも見えている。
尾州徳川家の初代:義直の生母:お亀の方は、家康の晩年、ともに駿府にいて、物吉貞宗の貴重さを知っていたので、義直に物吉貞宗をもらってやった。二代:光友も尾張家には本来であるならばないはずのものなのに、不思議にこちらに伝わった、と言っていたほどである。尾張藩主が狩衣を着用して脇差がさせない場合、あるいは将軍家から尾張家へ御祓いや日光のお鏡を頂戴する時などには、物吉貞宗をその懐中に帯びていた。参勤交代などの道中においては藩主の座乗する駕籠のなかに伴に入れて携行した。そして隠居する時、はじめて次の藩主に譲り渡すことになっていた。
四代:吉通の時代になると、ふだんは刀箱にいれ、中御間の床のうえに置いてあり、急火の場合は、小姓が持ち出すことに定められていた。幕末なると藩主のお側の刀箪笥の一の抽斗(引出し)に入れてあった。物吉貞宗には拵えがついていて、目貫は後藤祐乗の作で、じっと見詰めていると、竜が瞬きするように見えるというので、家康が「またたきの竜」と名付けたものという。本阿弥光温が物吉貞宗に承応3年(1654)9月3日、金百五十枚の折紙をつけている。14代:慶勝は池田正宗と物吉貞宗を大小にして差料にしたという。鮫黒塗柄蠟色塗鞘合口拵、蠟色葵紋付刀箱、桐刀身入箱、紺地鶴亀松竹梅宝尽文銀襴刀袋、焦茶地雲鶴宝尽文金襴刀袋が付属する。戦後、重要文化財に指定されている。

「名物帳」には、「尾張殿 物吉(貞宗) 無銘 長さ壱尺九分半 代 参千貫
表裏鍬形釼梵字蓮華有之。家康公御秘蔵にて常に御差被遊、能切れ申事度々物吉と御名付候由。御他界之砌に尾張故大納言殿御袋常に右之様子御存知故御取出し被成大納言殿へ被進候由也」

「物吉記」には、「号物吉 初東照宮在参河戦闘常以之、為備身、臨陣必帯、毎獲捷云、因云物吉、邦語調毛乃与之、猶言百年吉祥也」
物吉貞宗を帯びていて、戦勝を得たから、または、物吉貞宗を差料にしていると、何事も思召しのままだったから、という解釈もある。

尾張徳川家における記録では
・御腰物元帳(延享二年)
一 物吉貞宗御脇指 承応三午折紙有 代百五十枚 無銘 長壱尺九分半 表裏樋梵字蓮花有 御譲御代々御頂戴被遊候尤 御前ニ有之
・鞘書
「仁二ノ二十(仁2-20)」 名物 物吉貞宗

尾張徳川家の蔵刀は尾張徳川家御腰物帳に記載されている。白鞘には蔵番が記されており、儒教における孔子が提唱した五常「仁義礼智信」の一字と数字が鞘書きされるのが通例となる。「仁一ノ十二」「仁二ノ八」などとあらわし、仁義礼智信の順序と数字が小さいほど重要性が高くなる。

「駿府御分物」とは、家康の遺産であり、元和2年(1616)4月17日、75歳で家康が薨じた時、駿府城に備蓄されていた莫大な金銀財宝・書道具類の一部は将軍家:秀忠が相続したが、大半は「御三家」の尾張義直(尾張家)・駿河頼宣(のち紀伊家)・水戸頼房(水戸家)の三家に分与された。
「駿府御分物帳」(元和2年)は、分与を受けた遺産の目録で尾張家本・水戸家本が残されている。水戸家本全24冊のうちには、のちに「駿府御分物刀剣元帳」呼称される「上々御腰物帳」「闕所之刀剣脇指帳」が含まれている。この2冊に水戸家の請取分のみを記するのではなく、元和2年11月、当時駿府に在った家康遺産の刀剣、ならびに闕所の刀剣のそれぞれ全てを書き上げ、その一点一点に就き分与予定先を「尾州・駿州(紀州)・水戸」或いは「日光」と記入しており、「刀剣分与予定帳」となっている。
なかでも、最も優れた刀剣である「上々御腰物(13振)」「上々御脇指(13振)」は分与されずに全て二代将軍:秀忠に伝えられている。物吉貞宗も本来であれば当然、「上々御脇指」に仕分けられ、将軍家に伝えられたであろう。しかし、「上々御腰物帳」には物吉貞宗、或いは、「大和より」の貞宗は記されておらず、「駿府御分物」が行われる以前にお亀の方が密かに物吉貞宗を取りわけて義直に与えたという古伝が裏付けられている。

物吉貞宗は「光徳刀絵図」にその押形をみることができる。光徳刀絵図は本阿弥光徳が描いた刀の中心と切先の図で、天正16年(1588)の石田本・文禄3年(1594)の毛利本(重文)・文禄4年(1595)の大友本(重美)、写しである慶長5年(1600)の中村本・元和元年(1615)の寿斎本(重美)を含めて5種がある。5種とも内容にはかなりの相違があるが、その大部分は豊臣秀吉の蔵刀、または秀吉の手を経たものである。貞宗は中村本(慶長5年)・寿斎本(元和元年)に所載するが、一方で、石田本(天正16年)・毛利本(文禄3年)・大友本(文禄4年)には所載がない。光徳刀絵図には「貞宗 一尺一寸 大和ヨリ上」とある。慶長5年(1600)の中村本に所載されている時点では「貞宗」とのみ記されており、家康の手に入る前なので「物吉」の号はまだみられない。「大和ヨリ上(ル)」とあるので、太閤:豊臣秀吉に進上されたものであることがわかる。貞宗を進上した「大和」については、大和国を中心に紀伊国・和泉国を加えて百十万石を領有した秀吉の弟で「大和大納言」と称された豊臣秀長であろうか。秀長は秀吉に先立って天正19年(1591)に死去しているので、秀吉・秀長の甥で、秀長の養子となった「大和中納言」の豊臣秀保の可能性もある。秀長の天正19年(1591)につづき、秀保はわずか4年後の文禄4年(1595)に死去しているので両人のどちらかは悩ましく判断は難しい。しかし、秀長の死去した天正19年(1591)と中村本の慶長5年(1600)には時間的な隔たりがあり、また、石田本(天正16年)・毛利本(文禄3年)・大友本(文禄4年)にみることができないことから、貞宗を秀吉に進上したのは秀保であり、時期については文禄4年(1595)以前と考えるのが自然であろうか。「大和」よりの進上は「豊臣家御腰物帳」のなかでも、慶長3年、秀吉が死去する以前よりあった刀剣台帳である「御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ヨリ有之分之帳」(慶長6年)にはみられるものの、それ以後の、「御祝言之時進上御太刀御腰物帳」(慶長8年)・「慶長五年ヨリ太閤様以後進上御腰物帳」(慶長18年)には「大和」よりの進上や下賜はみられない。文禄4年(1595)、大和豊臣家は秀保の死と共に断絶しているので、やはり「大和」は大和豊臣家の秀長・秀保を意味するのであろう。

「豊臣家御腰物帳」の「御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ヨリ有之分之帳」(慶長6年)
三之箱 一 貞宗 慶長六年十月八日 将軍様へ御鷹野之時被進之
「御太刀御腰物御脇指方々え被遣之帳 慶長五年ヨリ同拾八年十二月迄」(慶長18年)
三之箱内 一 貞宗 御脇指但大和ヨリ 慶長六年十月 将軍様へ御鷹野之時被進之
豊臣家の蔵刀を納めた七つの刀箱のうち三之箱に貞宗は納められていた。慶長6年10月8日、家康が鷹狩を行った際に秀頼より貞宗を贈ったと記されている。家康と秀頼との間の贈答については、秀頼は慶長6年3月に家康を大坂城に迎えた時に宗三左文字の刀を、同年10月に貞宗の脇指を、同12年8月に長光の太刀、同13年4月にみくほ(みくも)長光の太刀、また同16年3月の二条城での会見の際、南泉の刀と左文字の脇指と真守の太刀を贈っている。これらの例をみても、豊臣家においても貞宗の脇指が重要視されていたことが窺い知れる。
徳川実紀の東照宮実紀(家康)・台徳院実紀(秀忠)には、貞宗の贈答についてや鷹狩りの記録はみることができない。「御太刀御腰物御脇指方々え被遣之帳 慶長五年ヨリ同拾八年十二月迄」は、慶長5~18年までに豊臣家から徳川家の家康・秀忠をはじめ諸大名に贈った刀剣台帳となっている。これには「将軍様へ」「大御所様へ」や「内府様(家康)へ」「江戸中納言様(秀忠)へ」と表記も区々となっており、「慶長6年10月8日、将軍様へ」とあるものの実際に家康が征夷大将軍に任命されたのは慶長8年で、秀忠は慶長10年である。貞宗の「将軍様へ」が家康と秀忠のいずれを指すものなのかは、当時の家康と秀忠の動向を徳川実紀で確認することができる。徳川実紀によれば、慶長6年9月、秀忠は伏見城を発して江戸に戻っており、翌7年正月も関東にいるので10月に畿内で鷹狩りを行うのは不可能である。一方、家康は10月には伏見城に留まっているので、古伝の通りに貞宗を受領した「将軍様」とはやはり家康が正しいということになる。

「光徳刀絵図」の貞宗の押形を検証してみると、長さは1尺1寸となっており、現状の1尺0寸9分(33.0cm)と誤差は僅かに1分(0.3cm)であるので許容範囲といえる。特徴のある彫物は、梵字は表の「バン」、裏の「ウーン」があり、鍬形が続き、その下に表は三鈷附剣、裏は素剣となっている。茎は浅い栗尻で目釘孔は2個となる。さらに細かい点をみれば、彫物は各々の相対的な位置もほぼ一致している、表の三鈷附剣の三鈷部分が摩耗して彫りが浅くなっている、表の鍬形の左側上部が短い、裏の蓮華の右側上部の花弁がない、刃文もほぼ同一で裏の蓮華やや上の焼きが高くなっている、2個の目釘孔の位置も一致しており第一目釘孔を埋めている、第一目釘孔が極くわずかに瓢箪形になり右下が直線上になる、などの点から勘案してこの貞宗が物吉貞宗と判断して差し障りないものと思量される。

形状は、平造、三つ棟、身幅広く、寸延びて、反りつき、先反りごころが加わる。板目肌よく練れてつみ、表の鎺元に大肌交じり、地沸厚くつき、地景入る。刃文は、小のたれ調に互の目交じり、匂深く沸あつくつき、砂流しかかって金筋入り、刃沸の雫れよりなる湯走り・飛焼かかる。帽子は、表は乱れて角ばり、裏は火焔風に掃き掛け、ともに返り長し。表に三鈷附剣・鍬形・蓮華・梵字の重ね彫が、また裏に素剣・鍬形・蓮華・梵字の同じく重ね彫がある。茎は、生ぶ、先浅い剣形、鑢目勝手下がり、目釘孔二(中一埋)、無銘。

相模国彦四郎貞宗は、正宗の養子とも弟子とも伝え、師風をよく継承しているが、一般に正宗に比べては地刃に穏やかさが見られ、短刀・小脇指の姿態が大柄で反りがつくところに明らかに製作年代が正宗より降るといわれる。また貞宗の作に極められたものの多くに刀身彫刻が施されており、これもまた巧みである。
物吉貞宗は貞宗極めの作中にあって最も大胆で迫力に富む作域を示したもので、沸の崩れよりなる自在の変化が見事であり、一見正宗に紛れんばかりであるが、正宗には皆無であるところの大柄で反りのついた体配を呈し、総体におっとりしたのたれを基調にした刃取りをみせ、また巧みな重ね彫がみられるところに貞宗と鑑すべき見処といわれている。

梵字は表の「バン」は金剛界大日如来、裏の「ウーン」は金剛夜叉明王をあらわしている。蓮台・鍬形を重ね彫りにする。さらに、その下のある表裏の三鈷附剣と素剣は不動明王をあらわしている。
物吉貞宗にみられる「梵字、蓮台、鍬形、素剣」といったいわゆる重ね彫りの意匠は、相州刀工の祖である新藤五国光作の太刀で伊達家に伝わった名物:陸奥新藤五に既にみられる。新藤五国光や大進坊祐慶にはじまり、そして、貞宗が確立したこの意匠が相州刀工の代表的信仰表示となり、近くは山城信国、さらに降って新刀期には康継の貞宗写しにみられる。「梵字、蓮台、鍬形」なる発想が、真言行者が修法に入る前に行う護身法の象徴化であり、「梵字、蓮台、鍬形」はとりもなおさず「仏蓮金」の三部を示すものという。「三部」は、仏・蓮・金とし、仏部(如来部)とは、理知の二徳を具足する円満な覚道を指し、蓮華部とは、人が生まれながらにもっている浄菩提心の清浄な理体を汚れ染まぬ蓮華に喩え、金剛部は、理に存する智徳は堅固で煩悩を摧破するから金剛に喩えている。物吉貞宗にみられる「梵字、蓮台、鍬形」の三部では、仏部(如来部)の金剛界大日如来は智慧の面を示し(胎蔵界は理)、智とは正邪を判別する精神作用であり、強い決断の意が必要であり、強固なものをしめす。蓮華部は、仏の功徳を象徴し、清浄不染の意から、仏教の文様の代表であり、大日如来の菩提心が開かれる大いなる慈悲の心を顕している。金剛部は、大慈悲を実現するためには、そのかげに鋭い強固な智慧の働きがなければならず、これを象徴したのが金剛杵である。金剛杵の本来の形は、きね形の武器で、中央部が把手、両端に利刃(鈷・股・鋒)がある形で、仏智の堅固と、煩悩を摧破する最強の武器で、破壊の絶対性の二面の象徴と解釈され、諸尊の持物として、また修法の法具として用いる。
鍬形(くわがた)は、金剛杵をあらわしており、兜の鍬形を略体化したものといい、仏智の堅固と、煩悩の摧破という二面を象徴する。鍬形の語源については、農具の鍬の先の形を模したものとする説。慈姑(くわい)の葉を横から見たところで、慈姑形と書くのが正しいとする説。沢瀉(おもだか)を勝軍草ともいうので、沢瀉の葉のまだ開かない形とする説、などある。
蓮華(れんげ)は、蓮の花を意味し、4~5弁のからなる略体のものがみられる。これは蓮華台、つまり蓮華の台座を象ったものである。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 1尺0寸9分(33.0cm)
反り 2分(0.7cm)
元幅 9分5厘(2.9cm)
元重ね 2分(0.7cm)
茎長さ 2寸9分半(8.9cm)

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