にっかり青江(にっかりあおえ)

  • 指定:重要美術品
  • 脇指 (金象嵌銘)羽柴五郎左衛門尉長(以下切) (名物:にっかり青江)
  • 丸亀市立資料館蔵
  • 長さ 1尺9寸9分(60.3cm)

にっかり青江とは刀の異名で、由来には三説がある。
「享保名物帳」説 江州蒲生郡八幡山付近の領主に、中島修理太夫とか、九得太夫とかいう者がいたとも、またその弟に、中島九理太夫とか、中島久得太夫とかいう者いたともいう。そのどちらかが、領内に化物が出るという噂が高かったので、ある夜、化物退治に出かけた。
すると、女が子どもを抱いてやってきた。石灯籠のところにくると、にっこり笑って、子供に、行って殿様に抱かれなさい、と言った。子供が寄ってきたので、一刀のもとに斬り棄てた。つぎに女が、私が抱かれよう、と言って、寄ってきたのも斬り棄てた。翌日そこに言って見ると、石塔が二基あって、その首ともいうべき所から、切り落とされていた。それで、にっかり青江と命名したという。
「常山紀談」説 浅野長政の家臣某が、伊勢の国に旅した時のこと、夜道を歩いていると、道ばたに若い女がいて、にっこり笑いかけた。化物、と直感し、女の首を打ち落とした。翌日、帰りがけに見ると、道ばたの石地蔵の頭が切り落とされていた。それで、にっかり青江と命名したという。
京極家の所伝 江州佐々木家で、十番備えの頭をしていた駒丹後守が江州蒲生郡長光寺村において、にっこり笑いかけた女を斬ったという。駒丹後守は狛丹後守と書くのが正しい。その後、柴田勝家が長光寺城主になったので、本刀を入手し、養子:勝久の差料にしていた。勝久は天正11年(1583)正月、賤ヶ岳の戦に敗れ、丹羽長秀に捕らえられ、斬首された。本刀は長秀が分捕り、子の長重に与えた。喜んだ長重は中心に金象嵌で、「羽柴五郎左衛門尉長重所持」、と所持銘を入れさせた。
その後、長重はこれを豊臣秀吉に献上した。秀吉も珍重したとみえ、一之箱に入れてあった。本阿弥光徳は押形をとらしてもらった。その時はすでに2尺(約60.6cm)に磨り上げられ、所持銘も「羽柴五郎左衛門尉長」で切れていた。豊臣秀頼の命により、本阿弥光徳はこれを埋忠寿斎のところに持ってきて、拵えを二度も作らせたという。秀吉も大いに気に入っていたからであろう。
その後、秀頼はこれを京極高次に贈ったともいうが、明かでない。八代将軍吉宗の希望により、享保17年(1732)、台覧に供した。爾来、讃州丸亀城主:京極家の重宝として伝来、明治に至った。昭和15年、重要美術品に指定される。戦後、同家を出るも平成9年に丸亀市が購入し、丸亀市立資料館に所蔵される。
「光徳刀絵図」「本阿弥光温押形」「埋忠押形」に所載する。「光徳刀絵図」の寿斎本に「御物につかり 長サ二尺 秀頼様ヨリ上リ 光徳より参候而寿斎拵二度仕申し候」「いんすにてそうかん也」とある。象嵌は印子金でしているのである。

名物帳には「京極若狭守殿 讃州丸亀 ニツカリ(青江)磨上 長さ壱尺九寸九分 無代
昔江州(に)中島九理太夫と申者有。兄八幡山の辺を領す。化者有と云り。十三才之時夜に入(り)、其所へ只壱人行(く)。女小さき子をいだき来る。石灯籠有。其本にて見れば彼女につかり々々と笑ひ、子に向て殿様にいだかれいと云(う)。子来るを切る。女いさ我行ていだかれんと云(い)来る。又切(る)。立帰り、次の日山中を狩て見しかども外にあやしき事もなし。古く苔むしたる石塔二つ有。二つ共に首と覚しき所より切落して有。其後は化生も不出。無何事(も)と云々。表裏樋中心表に羽柴五郎左衛門尉と迄有。先切る。定(め)て長秀なるべき也。」

刃長は1尺9寸9分(約60.3cm)、大切先、真の棟、表裏に棒樋をかき通す。地鉄は大板目肌に地沸えつき、地斑映りも現れる。刃文は匂いの締まった直刃に、ところどころ小乱れ逆足まじる。錵子は湾れて、先尖り、長く返る。中心は大磨り上げ、目釘孔三個。金象嵌銘「羽柴五郎左衛門尉長」で、以下切れる。作者の個銘は古来極められていないが、南北朝期の、いわゆる中青江物である。

金梨子地四つ目結紋散糸巻太刀拵
総長:96.7cm、総反り:4.3cm、柄長さ:22.9cm、柄反り:0.6cm、鞘長さ:73.2cm、鞘反り:2.2cm
総金具(縁・兜金・石突・柏葉・腹帯金・太鼓金):五三桐・四つ結紋散、赤銅、魚子地、高彫金色絵、金小縁、無銘。目貫:同紋三双。鐔:葵木瓜形、赤銅地、耳際魚子打、金覆輪。大切羽:赤銅地、四方猪目透、同紋散、金色絵、十字襷金色絵。小切羽:六枚。柄:伽羅色地金襷包、金茶糸平巻(渡柄同様)。鞘:金梨子地四つ目結紋・五三桐紋金蒔絵。
にっかり青江の太刀拵で、五三桐紋と四つ目結紋を鞘に蒔絵し、総金具は同紋を赤銅魚子地に散らし、金色絵金小縁としている。

京極家は、近江源氏の佐々木信綱の後裔で、京極高次のとき妹:松丸が豊臣秀吉の側室となり、従三位参議に叙せられた。高次夫人は、淀君の妹:初で、高次の死後に常高院と号し、大坂冬の陣のとき、豊臣、徳川の講和につくした。徳川二代将軍秀忠の夫人:江は、常高院の妹である。丸亀藩五万石は、万治元年(1658)、播磨龍野より京極高和が六万石で入封し、以後京極氏が幕末まで在封した。三代:高或のとき、庶兄:高通に一万石をを分知し、多度津藩ができた。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

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