抜丸(ぬけまる)

  • 長さ 2尺6寸(約78.8cm)

抜丸は平家の重宝とされた太刀で、その作者については、伯耆国(鳥取県)の大原真守説が最も多い。他には伯耆武保説、古備前助包説で、そのほか伯耆安綱説、伯耆日乗説などもある。このうち、古備前助包説は「抜き打ち丸」との混同といわれている。抽丸とも書き、作者はやはり大原真守とされている。日乗作の抜丸は、刃長2尺7寸(約81.8cm)、銘字は太刀表の目釘孔の上に、棟寄り切ってあったという。
抜丸は平忠盛が伊勢国(三重県)で入手したもので、初め「木枯」と呼んでいたという。忠盛は長男の清盛に小烏丸、五男の頼盛にこの抜丸を与えた。清盛は小烏丸と抜丸の両刀とも長男の自分に譲られるものと考えていたので、以後、頼盛と不仲になったという。しかし、清盛の子:重盛の太刀になったともいう。後に足利将軍家の重宝になっていたが、永享4年(1432)5月7日、御会所にあった塗籠の内に納められてあったのが、紛失していることが分った。京都中の土倉、つまり質屋を検索したところ、9日に発見された。しかし、責任者はそのため流罪になった。抜丸のその後の消息は不明である。

木枯は平家の重宝とされた太刀で、木枯丸ともいい、伊勢国(三重県)鈴鹿山の麓辺りに住んでいた貧民が伊勢大神宮にその生活が極めて苦しい貧窮を訴え続けていた。ある夜、猟をして妻子を養え、という夢告があったので猟師になった。あるとき三子塚という所で、一振りの太刀を買って以来、猟において獲物を逃すことがなくなった。ある夜、その太刀を木の根元に立てかけて眠りについた。翌朝、目が覚めてみると、太刀を立てかけていた木がすっかり枯れてしまっていた。それでその太刀に「木枯」という異名をつけた。その話を当時、伊勢守だった平忠盛が聞きつけ、種々の珍宝と取り換えたとも、クリマノ庄の年貢三千石を与えて召し上げたともいう。
のちに忠盛は木枯から抜丸と改名して秘蔵した。伯州大原真守の作で、刃長は2尺6寸(約78.8cm)ほど、反り高く踏張りのある剣形で、表面に刀樋をかく。刃文は小乱れだったという。小烏丸と同物の異説もある。

大原真守は、伯耆安綱の子、または安綱の次男、横瀬氏、嵯峨天皇の守り刀、嵯峨天皇の第四皇子または第十四皇子勝宮の守り刀、平家の重宝:抜丸、曽我五郎時致の太刀などの作者である。年代については、和銅(708)から、養老(717)・大同(806)・弘仁(810)・天長(824)・承和(834)・嘉祥(848)などと区々である。延暦14年(795)生、貞観3(861)死、67歳という説は、後世の創作といわれている。
もっと念入りな創作になると、宝亀9年(778)3月19日、伯耆の大原村山中で出生。通称は氏勗、14歳の時から父について修行、弘仁4年(813)8月25日、真守と改名した。斉衡2年(855)1月12日没、78歳。墓は延長7年(929)7月26日、台風による山崩れによって埋没、姿を消したという。すると、真守は直刀時代の人、ということになり、事実とまったく相違する。
作風は、大板目に柾目肌まじり、肌立った地鉄に、焼き幅の狭い、沸え出来の小乱れ刃をやき、鎺元に焼き落としもある。中心には工銘のほか、鎺の下に「勝」とも切る。勝はスグリとよめば村主(すぐり)という朝鮮語にあたる。わが国では帰化人に姓(かばね)として、その有力者に与えられた。当時の伯耆国には地理的な要因もあり中国大陸や朝鮮半島から渡来した帰化人も多く、現在の鳥取県倉吉市内の勝部は、その居住地で、かれらの祀った勝宿禰神社には、真守と同時代と思われる貞観13年(871)に、朝廷より従五位下を授けられている。したがって真守は帰化人で、勝姓だったので、刀銘に「勝」の字を添えたとも考えられる。
そのほか、「トモチガヘ」「行忍」「月卿雲客」とも切る。嵯峨天皇が真守を召して太刀十三振を打たせた時、「友ちがへ跡をおしまぬ千鳥とて行きもやらせぬ月の雲の端」という歌を与え、その意味を刃文で表すよう、とのことだった。それで銘に「トモチガヘ」のほか、「行忍」と切ったのは「行きもやらせぬ」の意、「月卿雲客」は「月の雲の端」の意という。真守は歌の意味がわからず、焼き刃を入れずに帰国した。代わって上洛した父の安綱はその意味を解し、刃文に千鳥の文様を焼き出して、それを「千鳥の太刀」と名づけた、という伝説がある。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

(法量)
長さ 2尺6寸(約78.8cm)

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