静形薙刀(しずかがたなぎなた)

  • 薙刀

 

静形薙刀は、源義経の愛妾:静御前の薙刀と同型の薙刀で、反り浅く、先幅の広くならないもの、つまり菖蒲造りの刀のようなもの、一名、シズ型ともいう。志津三郎兼氏がこの型の薙刀を造ったからともいう。しかし、静流薙刀術の所伝では、源義経が鞍馬山時代、鞍馬寺の僧に鬼一法眼の弟子がいて、それから学んだ剣術から薙刀術を工夫し、愛妾の静御前だけに教えた。それが静流薙刀術であるが、薙刀の形や長さに規程なしという。

静御前が所持したとされる薙刀はいくつか伝えられている
緒方惟栄拝領
文治元年(1185) 、源義経が京都堀川の館で土佐房昌俊の夜襲をうけた時、静御前が揮った薙刀で、異名を小屏風といった。
義経が九州に避難する時、供奉の豊後住人緒方惟栄に与えた。それ以後はながく、同家に伝来していたが、元和8年(1622)、甚太郎という研師に研ぎ直しをさせたところ、驚くべきことに三日目になって急逝してしまった。世人は薙刀の祟りと噂したという。
徳川将軍家蔵
小鍛冶宗近、または小鍛冶宗親の作といわれ、三代将軍家光が猪狩りにこれを遣ったところ薙刀は中心から真っ二つに折れてしまった。たちまちに多くの家臣たちが源平時代の大切な御道具をこのようなことで破損してしまった、と非難するのを、若年寄:堀田正盛が聞き、戦場で折れたらどうする?戦場ではなくこれが狩場で折れたことは幸いだった、と家来衆を戒めた。二つに折れてしまった中心は山城という名の鍛冶に継がせて一つに戻して修復したという。山城とは日置山城守一法のことであろう。
前田家蔵
北国の加賀藩主:前田利常は、将軍家蔵と前田家蔵と、どちらが本物であろうか、と詮議する声を聞いて、義経の愛妾である。薙刀を一本のみしか持っていなかった、と言うことはないだろう、と反論したという。その薙刀の置かれた部屋に、生理のある女中が入ったところ、鴨居にかけてあった薙刀が俄然、上から突然に落ちてくる、というまったくに不気味なことがあった。五代の藩主:綱紀はそれを恐れ、二重箱に入れ、枠をはめ、注連縄をはって、薪丸の土蔵に封じ込めた。そのとき鞘を新調したので、古鞘を本阿弥家で拝領した。その後、同家のものが、流行病で頭を並べて倒れたとき、薙刀の古鞘を一人一人に順番に胸に戴かせたところ、驚くべきことにたちまちに平癒したという。
溝口家蔵
越後国新発田藩主:溝口家に伝来したものは、もと会津藩主:保科肥後守の所蔵だったもので、これを出すと雨が降る、という口碑があった。
江戸浅草寺蔵
江戸の浅草観音堂の本尊の前にある鴨居には、やはり静御前の薙刀と伝えるものがあった。しかし、肥前国平戸藩主:松浦静山が知人を介して照会したところ、当寺にそんな話はない、と否定した。さらに家臣に調査させたところ、当時、婚礼薙刀といわれていた柄の長い、女性が用いる刃渡りの短い形式のもので新しいようであった。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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