大慶直胤(たいけいなおたね)

  • 位列:新々刀最上作
  • 国:武蔵国 (東京都・埼玉県・神奈川-東部)
  • 時代:江戸時代後期 天保頃 1830-1843年頃

大慶直胤は、現在の山形市鍛冶町居住の鎌鍛冶の家に、安永7~8年(1778~1779)に出生、月日は7月15日といわれている。号の大慶は、7月15日を大慶の月というのに、基づくからである。姓は荘司、通称は箕兵衛、号は大慶・格物道人。江戸へでて水心子正秀へ師事。寛政13年(1801)、23歳で早くも独立の作品を出す。
初め日本橋の堀江町住という。妻が日本橋茅場町の炭問屋の娘だったから、それは真実であろう。その後、神田に移ったが、ここで類焼にあい、和泉橋つまり現在の台東区和泉橋に移ったようである。それから東叡山の麓にもいたが、後年は下谷の御徒町、つまり現在の台東区上野五丁目(仲御徒町1-11)に定住した。
文化9年(1812)ごろ、郷里山形藩主:秋元家に召し抱えられ、文政4~5年(1821~1822)に筑前大掾を受領、嘉永元年(1848)、美濃介に転じた。名声が上がるに従い、各地からの招きもあり、各地に駐槌した。その地名を刻印で遺している。コロモ(三河国挙母)・サカミ(相模)・イツ(伊豆)・エンシウ(遠州)・イセ(伊勢)・シナノ(信濃)・ナニハ(浪華)・ヒッチュ(備中)・助川(常陸国)・ヲシテル(大坂)・ヅシウ(豆州)・都(京都)・チヤ(備中国千屋)・宮(丹後宮津)・桜花の中に総の字(下総国佐倉)・チバ(千葉)・二荒(日光)などがある。
安政4年(1857)5月27日没、79歳。浅草の本然寺(台東区西浅草3-25−3)に葬られた。
「水心子正秀」「源清麿」とともに江戸時代後期に活躍した「江戸三作」にかぞえられる。
作風は、各伝を巧みにこなした。備前伝は小丁子乱れに逆がかったものが多いが、明かな逆丁子乱れもある。相州伝は大互の目乱れに、沸え豊かにつき、砂流しかかる。以上の二伝をもっとも得意とするが、沸え匂いに力がなく、乱れの頭の締まるのが、古刀に及ばない点である。山城伝は直刃で締まり、働きに乏しい。山城伝では直刃が肌にからみ、縞をなしたものがある。地鉄は以上の各伝に相応して、小板目肌に映り入り、大板目肌・小杢目肌・柾目肌に地沸えつきとなる。しかし、地鉄の弱さを感じるのは、新々刀として止むを得ない。

刀 銘 出羽国大慶庄司直胤(花押)文化十二乙亥年仲秋 応杉原軍記正包望造之 (重要美術品)
刃長:2尺2寸9分
大慶直胤は水心子正秀門で、出羽国山形に生れ、本名を庄司箕兵衛といい、大慶と号した。直胤の作風は備前伝、相州伝、大和伝など多彩であるが、本刀は備前伝の傑作である。本作は身幅尋常、中切先、腰反りごころの姿である。鍛えは小板目梨子地風となり、乱映り立つ。刃文匂深い丁子乱に足入り、やや逆がかる。
江戸時代末期に復古刀を主唱したのは水心子正秀であるが、その門下である直胤にはまま師を凌ぐものがあり、この刀の如きもその一例で、彼の備前伝の作中の筆頭に置くべきものである。

刀 銘 造大慶直胤(花押) 天保五年仲春 (重要美術品)
刃長:2尺3寸5分
直胤の相州伝の傑作で同工の右翼といえる一口である。身幅広く切先延びごころの姿である。鍛え板目約み、地景入り、地景よくつく。刃文沸匂深く、湾れ主調に互の目乱ごころ交じり、足、葉よく入り、金筋、砂流しかかる。表裏に樋先の下がった棒樋を掻通す。
直胤の相州伝の傑作の一振りで、水心子の相州伝にこれ程の出来はない。恐らく正宗を狙ったものであろう。

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