和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)

  • 古刀最上作
  • 最上大業物
  • 美濃国 (岐阜県-南部)
  • 室町時代後期 永正頃 1505-1520年

 

 

和泉守兼定は濃州関に永正(1504)頃いた名刀工で、「和泉守」を受領し、「定」の字を「ウ冠に之」と切るので、「之定(のさだ)」とよび、孫六兼元と並んで、関物の双璧とされる。切れ味も「最上大業物」で、武将に愛好されたので、江戸期には、「千両兼定」ともいわれた。兼定は甲州の出身で初代:兼定の門人となり、のちにその養子となり濃州関二代:兼定となる。同門には兼常と孫六兼元がおり、孫六兼元とは義兄弟になったと伝える。兼定は俗名を次郎右衛門、或いは、吉右衛門と号す。作刀で年号のあるものは、明応2年(1493)から大永6年(1526)まで33年間にわたっており、晩年の永正14年(1517)の初頭には隣国の伊勢山田で鍛刀している。伊勢山田打の現存刀は4振が知られており、そのうちの一刀には「(菊紋)和泉守藤原兼定 伊勢於山田是作」と鎺下に菊紋を切っている。兼定は切れ味が「最上大業物」であるため、武将の愛刀になったものが多い。武田信虎・織田信澄・柴田勝家・細川三斎・明智光秀などのほか、池田勝入斎の「篠ノ雪」は特に有銘である。作風は、踏張りあって、反りの高い古刀の姿もあるが、多くは踏張りなく、反りの浅い新刀姿で、地鉄は杢目に柾目まじり、白気気味の錬れたものとなる。刃文は大互の目乱れに、沸えのよくついたもの、丁字乱れに匂いの深いものなどを焼き、刃中よく働くが、いずれも尖り刃がまじる。鋩子は小丸や乱れ込みで、返りは深いものが多い。兼定の子は、濃州関三代、「定」の字を楷書体に切るので、「疋定(ひきさだ)」と呼ぶ。疋定和泉守を襲名したというが未見となる。

幕末に至りもうひとりの「和泉守兼定」が登場する。会津古川家の初代は、前述の濃州関三代目:疋定(ひきさだ)の子:古川清右衛門兼定である。会津初代:兼定が会津の柳津虚空蔵尊に参詣した帰路に、時の領主:葦名盛氏に懇願され、会津の地にそのまま留まった。会津十一代兼定は、会津十代:古川近江兼定の子として、天保8(1837)年に会津若松で生まれ、幼名を友弥、29歳の時に清右衛門へと改めた。嘉永5(1852)年、兼定16歳の時より出仕し、若年期は十代兼定の代作代銘を行っている。初銘を兼元、文久3(1863)年に上京し和泉守を受領した際に兼定へと改めている。慶応元年、会津へ帰国し、慶応4年4月に藩命により弟子を引き連れ越後へ赴くが、攻防戦激化のため同年6月に帰国する。帰国後、戊辰戦役に参加するも、9月末の会津若松開城降伏後は城を出て猪苗代に謹慎した。明治2(1869)年より政府の求めにより鍛刀を始め、同年9月から5年間、越後国賀茂村にて鍛刀する。明治9年より福島県に奉職するも、これ以後、明治25年まで年紀作を見ない。明治36年1月に東京砲兵工廠に召し出され、新設の日本刀鍛冶所に於いて鍛刀を始めるが明治36年3月に67歳で急死した。作風は、地鉄は柾目・小杢目・大板目の3種類があり、刃文は直刃が多く、三本杉・大のたれ・その他に沸の激しい相州伝などがみられる。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)