陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)

  • 新刀中上作
  • 土佐国 (高知県)
  • 江戸時代中期 延宝頃 1673-1681年頃

 

 

陸奥守吉行は、江戸時代中期、延宝頃の刀工で、坂本龍馬の佩刀の作者として著名である。本名を森下平助といい、奥州宇多群中村(福島県相馬市)に、刀工の森下播磨守吉成の次男として生まれ、兄に上野守吉国がいる。父兄とともに大阪に出て、住吉に居住、三品派の大和守吉道に師事する。業成って陸奥大掾、ついで陸奥守を受領し、山岡家の養子となり山岡平助となる。元禄(1688)年中、土佐藩に招かれて鍛冶奉行となり、高知城の東、種崎町に移住する。藩主:山内豊昌の愛顧により、長岡郡仁井田村(高知市)に、一町五段五歩の田地を与えられた。そして九反田の東、鍛冶蔵(高知市城北町)において、藩の番刀を盛んに打った。それが終了すると、藩工を解かれたとみえ、大阪に帰って没した。吉行の作風は、師:初代大和守吉道の作風を受け継ぎ、当時、大坂で流行をみた河内守国助風の華やかな拳型丁字を焼き、他に直刃、初期には簾刃もある。「陸奥守吉行」「摂州住吉行」「陸奥大掾吉行」「吉行」などと銘す。作刀期は寛文、延宝、天和、貞享、元禄の頃である。

坂本龍馬が兄:坂本権平から拝領した刀で、龍馬は慶応2年12月24日の書簡に「国家難にのぞむの際には、必ず家宝の甲や宝刀をわかちなど致し候事」と故事をあげて、刀剣の拝領を願い出ている。そして「死候時も、なお御側にこれあり候と思いこれあり候」と書き加えている。権平はこの願いに応え、土佐の刀工で坂本家に伝えられた吉行の刀を龍馬に送った。折りよく、西郷隆盛が山内容堂に面会するため土佐を訪れており、権平は吉行を西郷隆盛に託した。その後、中岡慎太郎を経て、慶応3年3月20日、龍馬は吉行の刀を受け取った。その3ヶ月後、慶応3年6月24日付の書簡には、龍馬の喜びが表現されている。吉行を帯びて上京した際に、龍馬は早速、京都の刀剣家に鑑定させた。すると「皆、粟田口忠綱ぐらいの目利きつかまつり候」と龍馬は書いている。京都の刀剣商らに鑑定させたところ、陸奥守吉行と同じ大阪新刀の名工:粟田口一竿子忠綱(二代)にみられという。互の目丁字に足の入る作風は、二工ともよく作風が似通っているが、位列は吉行が中作であるのに対し、一竿子忠綱はかなり上位の上々作である。龍馬は佩刀の吉行が名工:一竿子忠綱に見紛うほどの上出来であったのが余程に嬉しかったのであろう。また、同志の毛利荒次郎が吉行をみて、しきりに欲しがり「私しも兄の賜なりとて、ホコリ候ことにて御座候」と得意になっている。

しかし、龍馬と陸奥守吉行の蜜月は長くは続かなかった。入手からわずか8ヶ月後の慶応3年11月15日、龍馬は京都:近江屋で暗殺されてしまった。床の間に置いてあった刀を鞘から抜く間がなく、刺客の刀を鞘のまま吉行で受け、鞘から刃にかけて3寸(約9.1cm)ばかり削り取られたという。龍馬の受難後は藩命により、長船宗光・勝光合作の脇指とともに坂本家を受け継いだ甥の小野敦輔の家に伝わった。その子:弥太郎は北海道の釧路市に移住していたが、昭和初年、火災にあって、吉行ほか焼身になってしまった。室蘭の堀井秀明刀匠が再淬(再刃)し、昭和3年9月、札幌市の富田秋霜氏が研ぎ上げたという。

龍馬の佩刀であった陸奥守吉行の刀は現在、京都国立博物館に所蔵されている。
刀 銘 吉行(陸奥守吉行) 2尺2寸(66.1cm) 反り:5厘(0.15cm)
反りはなく、刃文は直刃(再刃後)となり、茎に目釘孔が一個、「吉行」と二字銘が刻まれている。白鞘には「坂本龍馬佩用 大正二年十二月二十六日釧路市大火ノ際罹災ス」と鞘書がある。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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