山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)

  • 指定:重要文化財
  • 刀 銘 九州日向住国広作 天正十八年庚寅弐月吉日平顕長 (号:山姥切)
  • 長さ 2尺3寸3分弱(70.60cm)
  • 反り 9分3厘(2.82cm)

 

 

山姥切国広は堀川国広作の刀の異名で、上州の館林・足利両城主:長尾顕長が、天正18年(1590)、下野国足利で国広に打たせたものである。長尾氏はもと越後上杉家に属していたが、長尾改良(顕長の養父)の代の時に小田原北条氏に降っていた。「山姥切」は元来は天正14年(1586)、長尾顕長が北条氏康から贈られた備前長義作の本歌:山姥切長義の異名と伝える。天正18年、国広は顕長の命により、2月に写し:山姥切国広を鍛刀し、5月3日に本歌:山姥切長義に磨上げを行い、詳細な磨上銘を切っている。磨上げについては元来、大磨上無銘だったものに切付銘のみを行った説もある。なお、「山姥切」の逸話については、本歌:山姥切長義・写し:山姥切国広の双方にあり、本来どちらの呼称であるか明かでない。
小田原が落城し、顕長も領地を没収されると、この刀は、北条家の遺臣:石原甚五左衛門の手に渡った。石原が安住の地を求め、信州へ行く途中、小諸において妊娠中の妻が産気づいてしまった。山中のあばら屋にすむ老婆に妻をあずけ、小諸に薬を求めて下って行った。
石原が帰ってみると、その老婆が産み落とした嬰児を、むしゃむしゃ食べていた。驚くとともに怒り心頭に発した石原が、この国広で切りつけると、斬られながら虚空へ消えていった。そんな怪談があって、山姥斬りという異名がついた。関ヶ原の役が始まると、石原は井伊家の陣に加わった。同家の渥美平八郎が刀を打ち折り、困っていたので、これを渥美に贈った。
明治維新後、困窮した渥美家では、これを彦根市長曽根の商家に質に入れ、流してしまった。それを旧藩士の三居某が買い取り、秘蔵していた。大正9年、時の国宝審査員:杉原祥造が、それを買い取った。今次大戦後、重要文化財に指定された。堀川国広作のなかでも白眉の呼び声が高い。
大正15年の国広会には未出品、よって堀川国広考(昭和2年刊)にも未掲載ながら、新刀名作集(昭和3年刊)、新刀押象集(昭和10年刊)に所載する。

佐藤寒山先生の「寒山刀話」のなかに「山姥切国広」について記載されている。
国広はその長義の写しを作っています。それが今重要文化財になっている国広の刀で、それにも小さい銘ではあるけれども「九州日向住国広作」裏に「天正十八年庚寅弐月吉日 平顕長」と切っています。
それで、この刀を「山姥切」国広と呼んでいます。そういうと山姥を切った刀のように思われやすいけれども、そうではなく、その本科である長義の刀それ自体を「山姥切」といったものらしいです。そして、その刀を写した刀なので、「山姥切国広」と呼ぶべきものと解釈していいと思います。
その昔、私が国広大鑑を書いたときに、これは国広の決定版のつもりで書いたのですが、先輩から「山姥切国広」の話をたびたび聞いておりました。その時の話では皆、井伊家に「山姥切」という国広があって、それが残念なことに、大正の大震災で焼けてしまったということでした。そして杉原祥造さんのとった押形が残っている以外、何の資料もないということでした。国広大鑑には、杉原祥造さんの押形を入れ、これは井伊家に伝来したものだけれども、大正の大震災で焼失してしまったという説明を書いたわけです。それは私一人がそう思っていたのではなくて、本間氏を始め、ほかの人々も全部そう思い、そう伝えていたんです。
ところが、今から十何年前(昭和35年秋)に、ひょっこり出てきました。どのようにして出てきたかというと、本間先生のところに井伊さんの家臣がやってきて、「こういう国広があって、それを井伊家に買ってくれといって持ってきたけれども、どうしたものだろうか」という相談があったそうです。それは面白い話だ、その刀は是非拝見したいというわけで、私も拝見しましたが、紛うかたなき「山姥切国広」です。
これはどうしたわけかときいたところでは、おそらく杉原祥造さんが見た直後だろうと思いますが、震災前の井伊家のために、いろいろ世話してくれた旧家臣の方があって、井伊さんから御褒美にくれたのだそうです。ところが、その人は全く刀には関心のない人で、戦前も、戦後も全くわからないままにすぎたのですが、子孫が家を建てるとかなんとかで、もと井伊家から頂戴したものだから、井伊家に買ってくれといって持ってきたというわけです。

「堀川国広とその弟子」では本間薫山先生が下記のように表されている。
薫山曰く『旧幕時代に尾張家に伝来し、今は財団法人黎明会の所属となっている多くの名刀の中に、天正十八年五月三日に国広が彼が愛顧をうけた足利城主長尾新五郎顕長の命によって大磨上にして「本作長義云々」と銘を切っている同作中随一とも云うべき姿・刃文の豪壮なものがある。それとこれとを比較すれば一見してこれはそれをねらった作であることが直感される。しかも単なる模作ではなく、地刃の働きと、すすどしさは長義をさらに強調し、放胆の味さえ加わって長義の作中にあっても出色のものと云い得よう。国広の古屋打銘の作風は末相州物をおもわせ、堀川打のものには正宗、志津をおもわせるものがあるが、そこに至る一段階がこの長義へのねらいであり、これと取り組んだことであり、このことが彼の心技を脱皮せしめる契機となっているのではなかろうか。この作こそは彼の一生涯中自らかえりみても最も記念すべき、そして誇るべきものであろう。かつて国広大鑑編集の折に当時の界の誰もが信じていたこの刀が、関東震災で烏有に帰したという巷説を私も寒山も信じていたことを恥じるが、出現は戦後の斯界に於ける朗報中の屈指のものであり、自他ともに換気するものである。』

形状は、鎬造、庵棟、身幅広く先幅張り、重ね薄く、鎬低く鎬幅狭く大峰となり、先反の強い堂々たる姿である。鍛えは、板目、杢交じり総体に流れごころに肌立ち、ザングリとして地景交じり、地沸よくつき、飛焼入り棟焼頻りにかかる。刃文は、のたれ調に箱がかり互の目交り大乱となり、足・葉繁く、匂口締りごころに沸つき、砂流しかかる。帽子は、乱れ込み、表裏とも飛焼かかり、先掃きかけて返り、沸つく。彫物は、表裏に帽子を掻通す。茎は、生ぶ、先栗尻、鑢目筋違、あまり立てず、目釘孔一。

なお、本歌:山姥切長義と写し:山姥切国広の経緯については、平成26年(2014)に開催された「堀川国広とその一門」展の図録に詳しい。以下の括弧内は同書よりの山姥切国広に関する記述の抜粋となる。
『天正18年は、国広の足跡を理解する上で最も重要な年である。遺例としては、指表に「九州日向住国広作 (裏に)天正十八年庚寅弐吉日平顕長」と銘した「山姥切」の号のある刀(重要文化財)と、指表に「日州住信濃守国広 (裏に)天正十八年八月日 於野州足利学校」と銘した脇指(重要美術品)の二口が現存する。
前者の刀は、足利城主:長尾新五郎顕長の依頼によって、国広が鍛刀したものである。また別に、同年5月3日に長尾顕長が北条氏より拝領した長義の刀(重要文化財)に国広が拝領した旨を明示する切付銘を施している。
刀 (切付銘) 本作長義 天正十八年庚寅五月三日二九州日向住国広銘打
天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也
長尾新五郎平朝臣顕長所持
この長尾顕長は、由良成繁の二男で、兄に由良国繁、弟に渡瀬繁詮がいる。足利長尾氏の長尾政長の娘を娶り、その家督を継承して、下野(栃木県)の足利長尾氏の当主となった人物で、上記銘文が示すように、天正14年7月21日に、小田原に参府し、北条氏の臣下となり、その折、長義の刀を拝領した。
その後、豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、天正18年4月3日、秀吉軍は、相模の平地に入り、小田原城を包囲し、持久戦に入った。北条方は、これに対し、小田原城に籠城し、長尾顕長及び兄、由良国繁らは、北条氏照の配下に属して、竹ヶ鼻口の守衛の任に就いた(足利市史)。同年7月5日、条件つきの降伏が北条方より出され、7月11日、北条氏政・氏照らは自刃、氏直は高野山に籠居され、ここに北条氏は滅亡する。北条氏滅亡と共に、長尾顕長も足利の城地を没収され、常陸の佐竹義宣に預けられた(足利市史)。その後の消息は不明であるが、一説に流浪の身になったとも伝え、元和7年に病没している(足利市史)。
天正18年2月紀の山姥切の刀と、5月3日の長義の作に切付銘を入れた場所については、従来、小田原城下説と、長尾氏の領地足利説との両説があるが、以上の歴史的事実を踏まえて考えるに、既に臨戦状態にある小田原城下での作刀は、現実的に無理であろう。しかし、この両説の問題とするところは、あくまでも長尾顕長が、国広を招いたという前提に立っての論である。仮に、足利学校が彼を招聘し、同学校を介して、国広を長尾顕長に引き合わせたとすれば、この問題は払拭され、上記の作刀も、切付銘も全て足利で行われたことになる。
足利に於て、天正18年2月に山姥切の刀を作刀した時には、長尾顕長は、まだ足利に止まって出陣しておらず、当地で国広と会っており、山姥切の刀も見たと推測される。しかし、顕長は先に述べたように、天正18年4月には、小田原城に籠城しており、北条氏から拝領した長義の刀も当然持参して、小田原に出陣したはずである。然りとすれば、国広が何故、5月3日に切付銘をきることができたのであろうか。仮りに、本刀を足利に置いて出陣したとしても、顕長が居ない足利で国広が特定した日付をきることは不可能である。
この点について、想像を逞しくすれば、この時期、北条氏は、和戦の評議を繰り返していた(小田原評定)が、長尾顕長は、北条氏の臣下となる前からも何度となく、戦いを経験している百戦錬磨の武将であり、秀吉軍と戦う決意と、また北条氏の家臣であることの誇りと忠誠心を自ら示す気持ちの現れとして、彼の家臣に、その旨と北条氏から拝領した長義の刀を託し、それが、足利に居る国広の元に届き、この時点で彼が、本作の経緯を切ったのではないだろうか。
なお、通説に従えば、この長義の刀は、拝領時には太刀であり、それを国広が天正18年5月3日に大磨上に仕立て直し、磨上銘をきったものであるとしている。しかし、顕長が拝領する以前に、既に大磨上の刀であったものと鑑せられ、国広は、元来無銘であった刀に、前期の銘文を切り付けた、いわゆる切付銘を施したものと考えられる。』

本歌:山姥切長義と写し:山姥切国広ともに国の重要文化財に指定されている。本歌と写しともに国の指定品である国宝・重要文化財となっているものは、この二振以外には皆無であり、双方とも優れた伯仲の名刀であることを物語っている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺3寸3分弱(70.60cm)
反り 9分3厘(2.82cm)
元幅 1寸1分(3.33cm)
先幅 9分8厘(2.97cm)
鋒長さ 2寸5分5厘(7.73cm)
茎長さ 6寸4分(19.39cm)
茎反り 5厘(0.15cm)

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