阿波守在吉(あわのかみありよし)

  • 位列:新刀上作
  • 業物:業物
  • 国:山城
  • 時代:寛永頃

 

阿波守在吉については佐藤寒山先生が記された「国広大鑑」、及びその補稿に位置する「堀川国広とその弟子」に詳しい。以下は「堀川国広とその弟子」の記述の抜粋となる。
阿波守在吉は、鍛冶銘早見出に「阿波守藤原在吉、堀川国広門、寛永」とあり、新刀一覧には「阿波守在吉ト切ル。(※「藤原」の二字を入れていない)京都ニ住ス。堀川国広門人」とあり、冶工銘集志には「国広弟子内ニテハ劣ル」と記している。
在吉の現存するものは極めて少なく、実見したものは刀が三口、内二口が国広大鑑所載であり、本図譜の所載のものは大鑑発行後の新資料である。短刀は大鑑に三口を載せており、本図譜のものは、これも新資料である。この中、青山孝吉氏所蔵の刀には「慶長二年九月吉日」の年紀があり阿波守藤原在吉と銘がある。これについて大鑑に記述していることを見るに、
「慶長二年と言えば、国広をのぞき、門下のいずれの作刀にも見ない古さであって、従来一説に堀川定住の時を慶長四年としているが、それよりも年の遡る点が国広研究の新資料となるのである。国広の天正十九年より慶長四年までの七年間の消息としては、前述のごとく文禄朝鮮役従軍と、検知参加を伝えている。(中略)然らば阿波守在吉の国広入門はいつの頃であろうか。在吉に慶長二年紀の作刀の存することから察するに、恐らくはそれ以前であり、天正十九年国広在京の時にはすでに門人であったと思う。その所以の一は、在吉のこの作刀がすでに上工の技倆を示しているが、彼が如何に天才であったとしても、僅かに一両年の歳月を以てしてはこの域に上達する筈がないからであり、その二はこの作刀の出来が古刀長義風のものであるばかりではなく、他の同作に明らかに兼光に倣ったもの(高橋八束氏蔵の短刀)があり、また行光をねらったとおもわれるもの(西本済治氏蔵の短刀)があることである。換言すれば在吉は出来上がった後期国広風を学ぶよりは、その素を成す相州伝上工の作風を直接に学んでいるのであって、それも国広の指導によるものであろう。けだし彼は国広が古屋打風から堀川打風に脱皮しようとする過渡期の門人で同門中の古参ではなかろうか。かく考へる時に、ほぼ次の結論に到達するであろう。即ち国広は天正十九年以来、引続き、敢えて堀川とは限らぬが、京都に門戸を構えて作刀に従事し、早くも在吉のごとき優れた門人があったのである。上述の如く文禄の役、(文禄元年四月に始り、文禄二年一応和議が成立して派兵を徹した)文禄検地(文禄三年同四年、日向検地)に参加したとしても、それは一時的のことである。なお在吉の入門時代を国広の諸国流浪中と見ることも可能であり、あだかも俳聖芭蕉のみちのくの旅に随行した曽良のごとく国広と行を共にしたのが在吉であったかも知れない。」とあってほぼ言い尽くしており、目下に於ても、これ以上に進んでいないことを遺憾とする。ただ右大鑑の諸説中、慶長二年作の在吉の刀が備前長義の風を写しているとあるが、これは天正十八年打、山姥切の出現によって、在吉の作は山姥切によく似ており、山姥切が長義を写したものであることからも、一段と国広と在吉との関係が明白になったように思われる。即ち国広が山姥切を野州足利に於て鍛造した折には、在吉も側近の弟子の一人としてこれに協力しているのではなかったか、さればこそ慶長二年に既にこの作があるのではないかとも思われるからである。
なお、鍛冶銘早見出には、古刀期の刀工として、阿波住在吉なるものを挙げ、「阿波海部有吉同人ト云」と記している。有吉の作刀は未見であるが、或は阿波守在吉はこの二代乃至三代目の刀工ではなかったか。さすれば阿波守を名乗った(果して正式の受領か否かは国広の信濃守と同様に研究すべき余地がある)ことも多少肯けるものがあるような気がする。果して然りとすれば、国広の初期作に見る相州伝の鍛法は、寧ろ海部一派の影響を受けているのではないかとも想像される。但し以上の推理は全くの推量で何等の根拠もないが今後の研究問題として提示する。
在吉の作風は、嘗て実査した刀三口、短刀四口について見るに、刀は鎬造、庵棟、反浅く中鋒延びごころのものと、大鋒となるもの(本図譜所載)とがあるが、共通の造込みは、重ねが比較的に薄く、平肉の付かない点である。鍛は板目流れごころに肌立ち、ザングリとして地沸厚く、中には地景の交るものもある。刃文は慶長二年紀の刀に見るように大乱、足・葉頻りに入り砂流・金筋かかり、飛焼の交るものと、小のたれに互の目の交るもの、大きく浅く湾れて、互の目、小乱の交るものとがあり、すべて匂口が沈みごころに、砂流かかり沸つき、荒沸交るものが一般で、慶長二年紀以外の二口は、完成された堀川一門の作に相通うものがある。短刀四口の中、前述したように高橋氏所有のものは、一見備前兼光などを思わせる小のたれの刃文で、表に、草の倶利伽羅を彫ってあり、西本氏の短刀は直刃調に浅く湾れて匂深く小沸よくつき、金筋かかるなど、一見行光をねらったものであることがわかる。この作風は堀川国広を始め一門の作にも見られるところで不審はない。旧檜山氏蔵の寸延びの短刀は来国次などをねらいとした小のたれに互の目を交え、身幅の広いやや寸延びのものであり、本図譜所載のものは、一見堀川風をまる出しにしたものである。在吉に見る彫物は前記高橋氏の短刀に見るものの他には、棒樋、棒樋に添樋、腰樋等に限られている。茎は堀川一門に共通の舟形で、先は丸い栗尻、さまで細らず、鑢目は終始比較的に浅い筋違である。以上の作風にって、嘗ってほのかに懐いていた「在吉は果して国広の門人であろうか」と云う疑問は霧消する。それは在吉の作が果してどれが彼本来のものかと云う点が把めなかった時代に、彼はむしろ三品一門の出ではないのかと疑ったものである。しかし今日少いながら在吉の作刀を通鑑すれば国広門下の逸足の一人であり、冶工銘集志にいう、「国広弟子内ニテは劣ル」という批評が妥当でないこともわかる。ただ現存する作刀が如何にも少いのは如何なる理由によるか、これも結局は国広の代作者の一人であったからかと見る以外にはない。

(山姥切国広にもっとも作風が近いとされる阿波守在吉 慶長二年紀の刀)

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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