山伏国広(やまぶしくにひろ)

  • 指定:重要文化財
  • 太刀 銘 日州古屋之住国広山伏之時作之 天正十二年彼岸 太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安(号:山伏国広)
  • 長さ 2尺5寸5分余(77.3cm)反り 7分(2.1cm)

 

山伏国広は、堀川国広が山伏時代に作った刀で、差し裏に「太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安」、裏に「天正十二年彼岸 日州古屋之住国広山伏之時作之」と在銘する。伊東家の領内である日州古屋(宮崎県東諸県郡綾町)において、山伏鍛冶だった国広は、天正5年(1577)の暮れ、主家であった伊東家が九州の雄である薩摩国の島津家に敗れたので国外へ退去した時、伊東満千代のお伴をして、日向を去った。満千代が肥前の有馬セミナリヨに入学し、主を失った国広が同じく流浪中の身であった飯田祐安のために、主家の再興に備えて、打ったのがこの刀である。飯田新七良祐安は伊東家の一族であるともいう。国広の天正13年紀の作例はないが、山伏打ちは天正13年が上限といわれている。

形状は、鎬造、庵棟、中鋒。鍛えは、板目肌流れごころに地沸つく。刃文は、小のたれに互の目、尖り、飛焼交じり、匂口しまりごころに、やや荒い沸つき、匂やや深く、匂口冴える。彫物は、表:棒樋・爪、梵字、不動明王、裏:棒樋・爪、梵字、武運長久の文字。表裏:棒樋下の爪は略鈷ともいい、三鈷剣の左右の鈷を省略化したもので、三鈷剣つまり不動明王をあらわす。梵字は佩表の「武運長久」の上「カ」は地蔵菩薩をあらわし、佩裏の不動明王の上「バーンク」は金剛界大日如来をあらわしている。茎は、生ぶ、先刃上り栗尻、鑢目勝手下り、目釘孔二(第二目釘孔が生ぶ孔)。

大正15年(1926)6月6日、山伏国広は、東京の丸の内にある生命保険協会桜で開催された「国広会」に出品され高評を得た。国広会には83振が並べられ、後日、神津伯翁・小倉惣右衛門翁がその一部を堀川国広考として纏められた。
堀川国広考 (神津伯・小倉惣右衛門 中央刀剣会:発行 昭和2年刊)
新刀押象集 (内田疎天・加島勲:共著 昭和10年刊)
なお、山伏国広については、平成26年(2014)に開催された「堀川国広とその一門」展の図録に詳しい。

国広会に出品時の所有者は伊東祐夫氏の名前となっている。
伊東祐夫 (いとう すけお)
1873-1948 明治-昭和時代の銀行家。
明治6年11月16日生まれ。日本勧業銀行にはいり,佐賀・熊本・高知・長野の各支店長を歴任。昭和7年金融恐慌後に新設された日向興業銀行の頭取となり,今日の宮崎銀行の基礎をきずいた。昭和23年3月21日死去。76歳。東京出身。北海道帝大卒。号は麗州。(伊東姓であることから伊東家に所縁の方だったのであろうか)

国広の山伏打ちの作例はもう1振が現存し、刀「日州古屋住国広山伏時作(以下切)」と銘があり、刃長は2尺5寸5分半(77.1cm)、反り7分(2.0cm)となっている。こちらも天正12~13年頃の作といわれている。

室町時代後期の太刀の作例は少なく、この頃になると太刀より打刀が主流となり、様式的に太刀を佩くのは領主や城主ら大将格のみであったからといわれている。他では、美濃関の和泉守兼定に太刀の作例がいくつか現存し、「主嶋津治部少輔寛忠 永正十七年十二月十三日」と裏銘のあるものなどがある。太刀を製作できる刀工は、和泉守兼定のように当時としては珍しく官位を受領した高位の刀工や、領主らからの特別注文の際のみに限られる。
山伏国広も太刀として製作されているので、生ぶ孔と思われる第二目釘孔の位置が、通常の打刀のそれよりもやや低いところに空けられている。
国広には、太刀の他に剣の作例もいくつか現存している。剣も太刀と同様に高位の刀工に作品がみられる。古刀では藤四郎吉光に国宝が1振のみ、重文が五条国永・粟田口国吉・藤四郎吉光・長船光忠・長船長光・畠田真守らにある。新刀では堀川国広に重要文化財が1振のみ指定がある。
国広の重文指定の剣は「国広 興山上人寄進」と銘があるもので、興山上人が高野山に寄進したものとなっている。興山上人は木食応其ともいい、豊臣秀吉の高野山攻めの際に、高野山側の代表として和議を整え、その後、秀吉の信を得る。墓所は高野山にあり、国広作の剣は高野山蓮華定院蔵となる。

なお、山伏国広については、平成26年(2014)に開催された「堀川国広とその一門」展の図録に詳しい。以下の括弧内は同書よりの山伏国広に関する記述の抜粋となる。
『国広の作刀は、天正12年に一口現存する。佩表に「日州古屋之住国広山伏之時作之 天正十二年二月彼岸 (裏に)太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安」と銘した太刀(重要文化財)がある。本作の銘文から、天正12年2月には、彼が山伏になっていたことが理解され、彼の動向を知る上で基調である。これも彼の人生観・宗教観にかかわる結果であろうが、現に山伏として行動したというよりも、おそらく山伏の心構えという意味合が大きいのではないだろうか。他に、年紀は無いが、「日州古屋住国広山伏時作(以下切)」と銘する磨上げた刀が現存し、この作によっても山伏になっていたことが認められる。山伏時代は天正13年まで続いていたことが推測される。また、本作の年紀には、「二月彼岸」ときられている。「彼岸」は、彼の年紀にまま見るところであるが、これは古今を通して他工にはには殆ど見られない。彼岸は、通常、春分・秋分の日を中日として、その前後七日間を指すが、また別に、仏教用語で、煩悩を真ん中に横たわる川の流れにたとえ、仏教の理想の境地とする涅槃の境地(永遠の平和・最高の喜び・安楽の世界を意味する)を彼岸(向う岸)とし、人間の苦悩(四苦八苦)を経験する生死の世界を此岸としている。国広が上記の仏教的意味合で使用しているようにも思え、生生流転たる人生の悲哀と無常観を彼自身が悟り、その救いの現れとも感じ取れる。加えて父とも近親者とも伝える国昌の短刀にも「彼岸」を銘していることから、この一族の伝統的な手法であったとも考えられる。
改めて、天正12年紀の太刀を見ると、同作中、最初の太刀の作例であり、しかも自ら「太刀」と銘文しているのもこの作のみである。また伊東家の同族と云う「飯田新七良藤原祐安」と所持銘があるが、所持銘も本作の天正12年から始まる。銘文中、「日之」(日偏に之、時の異体字)の字の使用も同作中、初めて見られるものである。これは「とき」と訓むが、音符の「之(シ)」に通じ、「行く」・「進み行く日」・「とき」の意味をあらわしている。国広独特な使い方で、古今を通して、他工には未見であり、同作中では、天正12年紀の本太刀と、無年紀の「山伏時」の刀、他に長尾顕長が北条氏より拝領した長義の刀に国広が切付けた銘文の中に見られるのみである。本作には、重厚で、力強い見事な彫物が施されているが、就中、佩表の不動明王の彫物は、秀抜である。不動明王の彫物も、この天正12年紀の作刀が最初である。』

日向国飫肥藩主伊東家の祖先は、源頼朝時代、曾我兄弟から仇から狙われた工藤祐経といわれる。祐経から六代目の伊東祐持が、足利尊氏より日向都於郡(宮崎県西都市)をあたえられ、以来この地方の豪族として系譜をつづけた。祐持の後裔:義祐は島津家の領地飫肥を奪い日向の大半を勢力下におさめるが、元亀三年(1572)木崎原で島津家に大敗し、つぎの祐兵のとき島津家に追われ豊後に逃れている。そして天正15年(1587)、豊臣秀吉が九州平定の軍をおこすや、その先導をつとめ、戦後旧領飫肥に封ぜられた。慶長5年関ヶ原役に、祐兵の嫡男:祐慶は東軍に味方して旧領を安堵された。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
#山伏国広

(法量)
長さ 2尺5寸5分余(77.3cm)
反り 7分(2.1cm)
元幅 1寸7分(2.4cm)
先幅 7分8厘(2.4cm)
元重ね 3分(0.9cm)
先重ね 2分3厘(0.7cm)
鋒長さ 1寸3分5厘(3.9cm)
茎長さ 7寸2分(21.8cm)
茎反り 僅か

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