鬼丸国綱(おにまるくにつな)

  • 御物
  • 太刀 銘 国綱 (名物:鬼丸国綱)
  • 宮内庁蔵
  • 長さ 2尺5寸8分(78.17cm)
  • 反り 1分強(0.3cm)

 

 

鬼丸国綱は粟田口国綱作の太刀で北条時頼のために鍛えたと伝え「享保名物帳」に所載する。「三日月宗近」・「数珠丸恒次」・「童子切安綱」・「大典太光世」と並び天下五剣と称せられている。刀号の「鬼丸」の由来については「太平記」に詳しく、それによれば、北条時政の枕辺に夜な夜な1尺(約30.3cm)ばかりの鬼が現れ、時政を苦しめた。加持も祈祷も効がなかった。ある夜、刀が老翁に変じて、汚れた手で我に触れたため、錆びてしまい、鞘から抜け出られない。妖怪を退治したかったら、清浄な手で我が身の錆を除くべし、と夢のお告げがあった。
そのとおりにして、太刀を抜いたまま柱に立てかけておいたところ、突如それが倒れて、銀の火鉢に鋳出してあった鬼の頭を断ち切った。それ以来、鬼は枕辺に現れず、時政の病気もたちどころに癒えた。それでその太刀を「鬼丸」と名付け、秘蔵したという。ところが、いつのころか、北条の一族である名越家に移ったようである。元弘3年(1333)4月、名越高家は山崎の合戦において、鬼丸をもって奮戦し、ついに討死した、という。
ところが、また嫡家に戻った、と見え、北条高時が自害するとき、これだけは次男:時行に持たせ、信州へ逃している。建武2年(1335)、中先代の乱が失敗したとき、時行が自害したと偽装するため、鬼丸が棄ててあった、というが、時行を壊滅させたのは足利尊氏である。義貞が関係していなかったから、義貞に差し出した、というのは不合理である。時行の兄:邦時ならば、義貞の武将:船田義昌に捕らえられているから、邦時から義貞の手に渡った、とするのが合理的である。
いずれにもせよ、義貞は喜んでおのれの佩刀にした。湊川合戦のおりも鬼丸を佩いて、活躍した。越前藤島で戦死したときも、むろん鬼丸を帯びていたので、北条方の足利高経に分捕られた。尊氏から高経に、それを提出するよう命じたが、高経は焼失した、と虚偽の報告をして、自分のものにした。尊氏は怒って恩賞も与えなかった。のち高経が尊氏に叛くに至った原因の一つは、この鬼丸にあったという。
「享保名物帳」における鬼丸と命名した由来は、「太平記」と同様であるが、北条時政は北条時頼に改められている。なお北条泰時所持とする説もあるが、いずれも時代が上がり過ぎる。逆に北条時宗とする説があるが、それは下がり過ぎる。それで古剣書はすべて北条時頼のこととなっている。足利高経の子孫は、やがて「鬼丸国綱」を足利幕府に献じたとみえ、「二つ銘則宗」「大典太光世」とともに、足利将軍家の三刀となった。足利家が衰微すると鬼丸は織田信長へ譲られ、さらに豊臣秀吉に渡ったとする説もあるが、それは誤りで秀吉に直接渡った、とするのが正しい。信長が死ぬ2年前、津田宗及は信長の蔵刀を拝見しているが、その中に足利家の三宝刀は見当たらないからという。
足利義昭は天正16年(1588)、豊臣秀吉から捨て扶持一万石を与えられ、さらに秀吉の斡旋で准三宮の待遇を与えられた。おそらくその謝礼も必要だったし、またそのとき出家しているから、幕府再興の野心を棄てたことを表明するために、三宝刀を譲る必要があったのであろう。しかし、秀吉は、もう足利家の宝刀など眼中になかったのか、あるいは衰亡した家の刀は縁起が悪いと思ったのか、鬼丸は本阿弥光徳にお預け、二つ銘則宗は愛宕山へ寄進、大典太光世は前田利家へ贈っている。光徳に預けたのは火災のまじない、というから、聚楽第からみて光徳の家が火伏せの方角に当たっていたのであろう。篠造り則宗を、火伏せの神として有名な愛宕神社へ奉納した事実からも、そう推測される。
大坂夏の陣の勝利によって、徳川家康が天下の権を握ると、本阿弥光徳はさっそく鬼丸の処置を願いでた。今までどおり、そちに預けおく、との上意だった。百八代後水尾天皇の皇后は、将軍秀忠の娘だった。それに宝永3年(1626)11月13日、初めて親王の誕生をみた。喜んだ将軍家光は、本阿弥家に命じて翌月4日、鬼丸を献上させた。ところが不幸にも、その親王が同5年(1628)6月11日夭折したので、鬼丸はまた本阿弥家に返された。世人は、秀吉からの預かり物を献上した非や、誕生祝いに本阿弥家から出した踊りの唄に、不吉の文句があったから、親王さまはなくならはった、と非難した。
八代将軍吉宗の代になると、享保3年(1718)9月4日、大久保佐渡守から鬼丸を持参するよう、本阿弥三郎兵衛に申し渡された。御朱印・伝馬二疋・人足八人を与えられ、15日江戸出発。翌月18日帰着。21日幕府へ提出。将軍の上覧が終わると、27日鬼丸は下げ渡され、閏10月11日本阿弥三郎兵衛に、白銀二十枚の褒美があった。京都へは本阿弥四郎三郎が返しに行った。
慶応3年(1867)10月、徳川家康が大政を奉還すると、朝廷では本阿弥家に対し、鬼丸は朝廷の御物になったから従来の「鬼丸の太刀」を「鬼丸の御剣」と呼ぶよう通達してきた。翌明治元年、鬼丸の保管について、中参与に伺い出たところ、従来どおりとの返事だった。明治14年、当時の本阿弥家の当主:悌三郎が宮内省に返還した。
鬼丸国綱の押形は「天正刀譜」「光徳刀絵図」「光山押形」などに出ているが、「光悦押形」のものだけが異なっている。

形状は、鎬造、庵棟、中反高く、中鋒かます風。鍛えは、小板目、小杢目交じり、よくつみ、地沸つき、地斑交じる。刃文は、小乱れ、小杢目交じり、よくつみ、地沸つき、小足・葉入り、匂口沈みごころになる。帽子は、乱れ込み、先大丸ごころに返る。茎は、生ぶ、先栗尻、鑢目浅い勝手下がり、目釘孔一。
この太刀は、身幅が広く、輪反り風に反りが高く、中鋒がかますごころとなり、地肌は板目やや肌立ち、小乱れの刃文を広く焼き、腰刃を大きく表裏にあらわすなど、粟田口六兄弟の作にもその他の一派の作にも大いに趣を異にしているという。

粟田口国綱は国友・久国・国安・国清・有国とともに粟田口六兄弟の末弟で、のち相州鎌倉に下向し、備前の助真・国宗とともに相州鍛冶の開拓者となったと伝える。有銘作の遺例は稀れであるが、作風は、粟田口風のものと、それとは趣を異にし姿が豪壮で地がねの肌立ったものがある。
鬼丸国綱の拵は「鬼丸造り」といい、昔は「楠造り」とよばれていた。鎺は銀、鳩と桐紋を毛彫りする。切羽は八枚、素銅を黒塗りする。柄は鮫皮をきせ、素銅の縁頭・猿手をつけた上を、こげ茶のしぼ革で巻く。そのうえに桐の壺笠目貫をつけ、茶色の糸で巻く。鐔は木瓜形の革鐔で、鐔袋を着せる。ただし鐔袋は柄を包んだ革に縫いつけ、裏側は紐で締めるようになっている。鞘は柄と同じ革で金具のうえから包む。足間は柄を巻いた革でまく。足には紫革をつけ、帯取りは黒縞の広東で包んである。これは豊臣秀吉が細川幽斎に命じて修復したものという。鬼丸造りの模造が幕末になって、嘉永の末から安政ごろにかけて、江戸で流行した。ただし鐔は鉄の葵鐔を用いた。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺5寸8分(78.17cm)
反り 1分強(0.3cm)
元幅 9分5厘強(2.88cm)
先幅 6分5厘弱(1.97cm)
元重ね 2分6厘(0.79cm)
先重ね 1分7厘(0.52cm)
鋒長さ 1寸5分(3.18cm)
茎長さ 6寸4分半(19.54cm)
茎反り 2分(0.61cm)