津軽正宗(つがるまさむね)

  • 指定:国宝
  • 刀 (金象嵌銘) 城和泉守所持 正宗磨上 本阿(花押)(光徳) (号:津軽正宗)
  • 東京国立博物館蔵
  • 長さ 2尺3寸3分余(70.6cm)
  • 反り 7分余(2.12cm)

 

 

津軽正宗は城和泉正宗ともいい相州正宗作の刀で奥州津軽家に長く伝来したことが刀号に由来する。古くは甲斐の武田家にあったといい、金象嵌所持銘の城和泉守は、はじめ武田家にそして天正10年以後は徳川家康に仕えた城和泉守昌茂である。昌茂は七千石の旗本となっていたが、大坂冬の陣で、軍令を犯したかどにより改易となり、江州石山寺に屏居していた。その時、津軽正宗を手放し、津軽家に入ったという。昌茂は他に上部当麻(城和泉当麻)も所持していたがこれも手放している。
なお、埋忠銘鑑に「慶長十四年六月ニさうかん寿斎仕申候」とあるので、慶長14年6月、本阿弥光徳が相州正宗と極め、埋忠寿斎が金象嵌を施していることがわかる。

形状は、鎬造り、庵棟、反りやや高く、中鋒の詰まった細身の刀である。鍛えは、小板目、杢交じりよくつみ、物打辺板目やや流れ、総体に地沸厚く、地景よく現れ、上半に飛焼状の湯走りがある。刃文は全体に大のたれ調の乱刃で、表は下半に島刃を焼き、大のたれに互の目、小乱れ交じり、物打は直刃ごころに浅くのたれる。裏は下半大きくのたれ、のたれの中に互の目・小乱れを交じえ、島刃もあり、足・葉盛んに入り、中程は浅くのたれ、丁子足を入れ、金筋かかり、物打は浅くのたれ、金筋かかる。総じて沸強く、金筋激しくかかる。帽子は、表は直ぐに焼き詰め、長い金筋がある。裏は火焔状に沸くずれる。茎は大磨上げ、先剣形、鑢目筋違、目釘孔一、表に「城和泉守所持、正宗磨上、本阿(花押)」と金象嵌銘がある。
相州上工の特質を要約すれば、硬軟二様の地鉄の組み合わせ鍛錬による地景の高い格調と、地中刃中いずれにもある精気溢れる沸の強く光る美しさにあるが、ことに正宗にはそれが顕著であるという。津軽正宗の地景は小模様にととのって深いうるおいを示し、沸は煌めく星のごとき力強さを見せ、そのいずれもが相互に作用し至妙の境域をものにして、まさに正宗中の正宗たる名刀である。

相州正宗は国宝を最も多く9振を輩出した名工で、津軽正宗はその最高傑作の呼び声が高い。正宗の国宝9振は津軽正宗(城和泉正宗)、観世正宗、中務正宗、太郎作正宗、日向正宗、九鬼正宗、包丁正宗(内藤家伝来)、包丁正宗(奥平松平家)、包丁正宗(尾張徳川家伝来)となっている。国宝に指定される刀剣の総数は122振にのぼり、相州正宗:9振、備前長光:6振、来国俊:5振、備前正恒:5振、備前吉房:5振、藤四郎吉光:4振、相州貞宗:4振、備前国宗:4振の順に指定数が多い。

弘前藩津軽家は、もと大浦と称し、藩祖:津軽為信は、津軽の地を支配していた南部家の配下で父祖代々の大浦城にいた。為信は戦国の動乱にさいし、南部家の支配を脱し津軽の覇者たらんと野望をおこした。大浦家の源は藤原氏で、かつては津軽六郡を領していたという。ひそかに祖先の地奪還の機を狙う為信は、元亀2年(1571)5月、石川(南部)高信のいる石川城を奇襲し、これを墜した。以来17年、つぎつぎ津軽の諸城を攻めほろぼし、津軽をおのが手に掌握した。為信は、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原北条征伐が始まるや、ただちに家臣十八騎をつれ海路上洛、ついで駿河沼津において秀吉に謁し、念願の津軽安堵の朱印状を下付された。そして京都で血縁関係のある近衛家を訪れ、近衛家の家紋に似た「杏葉牡丹」の紋所使用を許された。これより為信は、大浦姓から「津軽」に改めた。同年9月、秀吉の命をうけた前田利家。片桐且元らの検知団がきて、津軽為信の所領を四万五千石と確定した。慶長3年(1598)、秀吉が没し、同5年(1600)関ヶ原役がおこった。為信は徳川に味方し、二千石を加増され四万七千石となった。津軽の地位を確立した為信は、弘前に築城を計画、二代:信枚の慶長16年(1611)に完成した。慶応4年、戊辰戦争が勃発するや、弘前藩は奥羽列藩同盟を脱し新政府側につき、戦後、仙台藩伊達家に替り奥羽触頭の地位についた。津軽家は一万石の賞典禄をえた。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺3寸3分余(70.6cm)
反り 7分余(2.12cm)
元幅 8分8厘(2.67cm)
先幅 分厘(cm)
元重ね 5分8厘(1.76cm)
先重ね 2分(0.61cm)
鋒長さ 9分6厘(2.91cm)
茎長さ 5寸8分1厘(17.6cm)
茎反り 5厘(0.15cm)