中務正宗
中務正宗(なかつかさまさむね)
- 指定:国宝
- 刀 (金象嵌銘) 本多中務所持 正宗 本阿(花押)(光徳) (名物:中務正宗)
- 九州国立博物館蔵
- 長さ 2尺2寸1分(67.0cm)
- 反り 5分5厘(1.7cm)
中務正宗は相州正宗作の刀で「享保名物帳」に所載する。伊勢国桑名城主:本多忠勝が本阿弥光徳の取り次ぎで買い入れたため、忠勝の官名:中務大輔(なかつかさしょうゆう)から採って「中務正宗」と呼ばれる。或いは、忠勝が治めた地の桑名にちなみ「桑名正宗」ともいう。もともと大磨上無銘だったので、忠勝は慶長11年(1606)2月、本阿弥光徳と埋忠寿斎に命じて、金象嵌で佩き表に「正宗 本阿(花押)」、裏に「本多中務所持」と入れさせた。その後、徳川家康に献上、家康はこれを水戸頼房に与えた。頼房の遺物として水戸光圀は、寛文元年(1661)8月23日、中務正宗を四代将軍:徳川家綱に献上した。折紙はもと六千貫だったが、このころ三百枚に改められた。
将軍家綱が没すると、その遺物として、延宝8年(1680)6月27日、甲府綱豊に中書正宗(中書は中務の唐名)の刀、印月江の掛軸、茶壺(道阿弥肩衝)が贈られた。綱豊はのち六代将軍:家宣となったので、中務正宗は徳川将軍家の伝来品となった。
明治17年6月、中務正宗に半太刀拵えを新調して、大久保一翁に贈った。その後、大久保家より徳川家へ贈られ、同家の名で昭和10年重要美術品、同16年国宝に認定された。戦後、同家を出て、現在は新国宝。
鞘書に「延宝八年六月廿九日従厳有院様文昭院様え御遺物 中務正宗御刀」
埋忠銘鑑、継平押形に所載する。埋忠銘鑑に「慶長十一年二月ニ寿斎入申候、中心はまへのまま」とあるから中心は新たに磨上げず前のままにして、それへ象嵌銘を入れたということになる。
名物帳には、「御物 中務 桑名 (正宗) 象嵌銘 長さ弐尺弐寸分半 代金参百枚
本多故中務殿桑名在城之時分光徳取次にて御求め。中心表に本多中務所持裏に正宗本阿判と象眼に入(る)光徳也。家康(公)へ上る。寛文年中右の代也。水戸殿へ御伝(え)故中納言殿より上る。甲府様へ被進 御城へ来る。」
「将軍徳川家御腰物台帳」
延宝八申年六月廿九日、従厳有院様、文昭院江御遺物。
中務正宗 象嵌銘、長二尺二寸一分(約67.0cm)、代金三百枚。
是者、本多中務所持、権現様江被進。寛文元丑年八月、水戸殿御遺物として上る。
此御拵、明治十七年六月、左の通り大久保一翁殿江差上候に付、御拵になる。但し御研ぎ出来ず。
半太刀、総御金具、赤銅魚子色絵御紋。御鍔・目貫同断。御切羽金着二枚、赤銅二枚。御鎺銀無垢。刃棟金着牡丹鈩、平象嵌。御鞘・柄下共金枠着。御柄糸白テセラ巻、御鯉口金粉塗。御下緒茶白抜打紐。
御名物御道具の項には、
中務正宗 御刀、相模国鎌倉。
是は本多中務大輔所持。権現様江上る。後、水戸殿江被遺。又水戸殿より甲府中納言殿江被進。延宝八申年(1680)六月廿九日、厳有院様より文昭院様江御遺物。
形状は、鎬造り、庵棟、反り浅く、身幅広めに、中鋒延びごころとなる。鍛えは、板目やや肌立って、地沸厚くつき、地景入り、湯走りがある。刃文はのたれに互の目、小乱れ交じり、足・葉頻りに入り、沸匂深く、砂流し・金筋かかる。帽子はのたれ込み、先ほとんど焼き詰め、僅かに掃きかける。彫物は表裏に棒樋を掻き通す。茎は大磨上げ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔一、指表に「本多中務所持」、裏に「正宗 本阿(花押)」と金象嵌がある。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
(法量) | |
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長さ | 2尺2寸1分(67.0cm) |
反り | 5分5厘(1.7cm) |
元幅 | 9分4厘(2.9cm) |
先幅 | 7分(2.1cm) |
鋒長さ | 1寸2分8厘(3.9cm) |
茎長さ | 5寸1分強(15.5cm) |