八文字長義(はちもんじちょうぎ)

  • 刀 無銘 備前長義 (号:八文字長義)
  • 長さ 2尺5寸9分(78.4cm)
  • 反り 6分4厘(1.95cm)

 

 

八文字長義は備前長義作の刀の異名で佐竹義重が所持した。永禄10年(1567)、小田原の北条氏政が大軍をひきい、常州新治西郡の下妻城主:多賀谷政経を襲った。政経の援軍として出陣していた佐竹義重が、この刀をもって北条方の騎馬武者の頭上を一撃したところ、兜もろとも頭部を両断し、馬の左右に八文字形に分かれて落ちた、それで八文字長義と名付けた。
もと奥州岩城(福島県いわき市)の城主:岩城家旧蔵で、その関係で佐竹家に贈られたものであろう。義重はこれを普段差しにしていた。異名の由来については、どこかの祭礼の時、背後からまず右袈裟に斬り、倒れぬうちに左袈裟に斬った。それが八文字の形になったからとも、義重が長義の切れ味を知っておきたくて、四人分の股つまり八本の股をしばり合わせて、切らせたところ、見事に切れ通ったからともいう。
大正6年、佐竹家を出、小泉三申氏の有に帰していたが、昭和9年、同家を出た。小泉三申こと策太郎氏は、新聞界から政界に入り、明治45年から昭和3年まで、衆議院議員をつとめ、策士として政界の惑星視されていたが、古美術愛好家でもあった。大正6年、佐竹家から蔵刀の一部を引き出していた。昭和9年11月、所蔵の古美術品を東京美術倶楽部で競売にかけた。その中に刀剣として、佐竹家旧蔵36振りと、山形県上山市の高橋家旧蔵の2振りが入っていた。

長義は、一説に、長船真長の後裔、光長の子と伝え、相伝備前と呼称される南北朝期の多くの備前鍛冶の中で、兼光と並んで傑れた技倆を示す刀工である。現存する作刀の年紀は貞和より康暦に及んでおり、多く備前鍛冶や兼光ら長船正系が北朝年号を用いるのに対して、長義には南朝年号を用いているものもみとめられる。その作風には匂勝ちのものと、地刃の沸が強いものとの両様があるが、殊に後者の作例は兼光以上に相州伝が強調され、ために、「備前刀の中で最も備前ばなれした刀工は長義也」と古来称されている。その刃文は兼光以上に出入りと変化の目立つ個性的なものが多く、鍛えも板目に地沸を厚く敷き、地景を交えるものである。また古くより兼光と長義を照らし合わせて、兼光を梅花に長義を桜花に喩えることが行われてきたのは、兼光の整然とした角互の目調の刃やおっとりした湾れ刃の出来と長義の大模様で出入り深く変化ある乱れの様子を対比しているとみられ、実に言い得て妙である。

八文字長義の形状は、鎬造、三ツ棟、身幅一段と広く、元先の幅差目立たず、身幅に比して鎬幅狭く、重ね厚め、反りやや深くつき、大鋒。鍛えは、板目に杢交じり、肌立ち、地沸厚くつき、鈍く地景入り、地斑交じり、乱れ映り立つ。刃文は、おおどかなのたれを基調に、互の目・小互の目・小丁字・尖りごころの刃など交え、足・葉入り、島刃交じり、沸つき、処々匂勝ちとなり、飛焼・湯走り風よく入り、金筋・砂流しかかり、匂口明るい。帽子は、乱れ込み、よく掃きかけ、焼詰め風となる。彫物は、表裏に棒樋を掻き流す。茎は、大磨上、先切り、鑢目勝手下がり、目釘孔二、無銘。

備前長義は技量・知名度ともに高く、正宗十哲の一人にもかぞえられ、八文字長義の他にも山姥切長義、六股長義などの名物もいくつかあり、重要文化財5振、重要美術品6振を輩出する南北朝時代の備前鍛冶を代表する名工である。長義の兄といわれる一門の長重に国宝1振があるものの、長義には国宝はない。古刀では長義に国宝がなく、同様に新刀では肥前初代忠吉にも重要文化財がない。

佐竹義重は佐竹義昭の子で、常陸の名族:佐竹家の十八代当主となる。常陸北部の中堅大名だった佐竹家を、常陸全域から下野・陸奥南部にまで勢力の及ぶ家に成長させた。若くして父:義昭から家督を受け継いだが、その当時の佐竹家をめぐる情勢は南の北条家、北の伊達家という両雄に挟まれ、きびしい情勢であった。父の外交政策を受け継ぎ越後の上杉謙信と結び、関東の諸大名を糾合して北条家と戦った。義重は自ら八文字長義の刀を振るい陣頭に立って奮闘したため、「鬼義重」「板東太郎」の異名がついた。伊達政宗が家督を継ぐと伊達家は南下政策を強めるが、義重は二男:義広に芦名家を継がせてこれに対抗する。人取橋の戦いや郡山合戦で優位に立つが、勝利を確定できず、そのうち摺上原の戦いで芦名家が伊達家に大敗すると一気に苦境に追い込まれる。しかし、ちょうどその頃、豊臣秀吉が小田原の北条家を攻め、義重は早くから秀吉に通じたため形勢は逆転し、伊達家は会津を放棄させられた。佐竹家は常陸のうち五十四万石の支配を認められる大大名となり、義重は徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、島津義久とともに「天下六大将」の一人にかぞえられた。

佐竹家は伊達家や島津家と同じく鎌倉時代の古くから続く大名家の一つで、佐竹家の家祖は源新羅三郎義光の孫:昌義という。発祥地が常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)であったので佐竹を名乗り、馬坂城の近くには、昌義の信仰した佐竹寺がある。佐竹家は約400年にわたり常陸一帯を納めた。戦国時代の当主であった佐竹義宣は、常陸水戸五十四万石城主だった。関ヶ原役にさいし、信仰のある石田三成への義理だてにより中立を保ったのが裏目に出た。徳川家康の不興を買い、慶長7年(1602)7月、秋田二十五万石へ国替えを命ぜられてしまう。秋田にはいった義宣は翌8年、久保田神明山に築城を開始した。久保田城は本丸・二ノ丸・北ノ丸・三ノ丸の三重構造で、天守閣は築かなかった。義宣は慶長19年、大阪冬の陣に出兵した。この時、佐竹家の家臣が目覚ましい働きをしたとして、将軍秀忠は家臣を召し出し、戸村義国に青江直次、梅津憲忠に信国の刀、他の三人には、時服・羽織を与えている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺5寸9分(78.4cm)
反り 6分4厘(1.95cm)
元幅 1寸0分6厘(3.2cm)
先幅 8分7厘(2.65cm)
鋒長さ 1寸7分2厘(5.2cm)
茎長さ 7寸5分6厘(22.9cm)
茎反り 殆どなし

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