前回は室町期の平高田を中心に述べましたが、今回は新刀期の藤原高田について説明しましょう。

■藤原高田とは
藤原高田とは、桃山以後の新刀期に豊後高田に住した刀工および刀工類を言います。
古刀期の「高田住」は一種のブランド名で、豊後の広範囲で作刀されたものを含むと説明しましたが、藤原高田は旧高田村の地で作刀されたものです。
銘文の中に「豊州高田住藤原統行」「藤原統景」「豊州高田住大和守藤原忠行」など「藤原」を切銘しているところから、そのように呼ばれています。
一般に高田では、平というのは古刀、藤原とうのは新刀と言い、区別しています。
新刀高田の祖は統行と言われていますが、文禄年間から寛永の初めごろまでの約38年間は、高田鍛冶の空白時期でもありました。実質的に藤原高田が繁栄したのでは、寛永9年(1632)以降で、寛文・延宝~享保・元文ごろまでの約100年間です。
なぜ空白期間が生じたかは、次の3つの要素が考えられます。
① 大友氏の滅亡
② 秀吉および家康による豊州地区の分配支配
③ 慶長元年(1596)の別府湾の大地震

■大友氏の滅亡について
守護大名:大友義鎮(宗隣)の最盛期は豊後のみならず、豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の六カ国を領有し、なお日向・伊予に対して威を振るった時代でした。しかし天正6年(1578)、日向で「耳川の戦」で島津氏に大敗した後は、徐々に勢力が衰え始めました。天正15年春には秀吉が九州に出兵し、平定します。
その年の6月11日、大友宗麟は死去します。秀吉により大友氏の領地は宗隣の子:義統に安堵されますが、義統は秀吉の命により文禄の役に参戦、敵前逃亡の罰により文禄2年(1593)5月に改易されてしまい、大友氏は滅亡しました。

■秀吉・家康による分割支配
文禄3年、今まで大友氏の支配下にあった豊前・豊後の広大な領地は秀吉の命により細かく分割され、さらに関ヶ原の戦で勝利した家康によっても同様な策が取られました。家康の時の分割状況は左記の通り。
藩は中津藩十万石、岡藩七万五千石を筆頭に、二万石を中心に八藩、さらに領すなわち飛地として熊本藩領二万三千石、延岡藩領それに直轄地を含めて七つに再分割されました。
大友氏滅亡により、大友氏および大友氏支配下の武将たちの注文に応じて作刀していた刀工たちは注文主を失い、他国に移住転出、または農具鍛冶に転職あるいは帰農したものと考えられます。
わずかに豊後にとどまり作刀された刀の中で、現在、裏年紀があり確認されたものは豊州高田住藤原統景/文禄四年二月日の刀を含め、慶長五年紀の行長、慶長七年紀の統行の刀など、7振前後にすぎません。
裏年気はありませんが、慶長期の作と思われるものもさほど多くは残されていません。それらの地刃の作風は藤原高田とは異なり、古刀期の平高田の作風であります(刃文①②参照)。
前述のように大友氏一国支配であった豊州国が、秀吉・家康に再分割されたことにより、当時大混乱があったことが想像できます。人や物の往来が不自由になったばかりでなく、例えば高田鍛冶の中心地であった旧高田村は、慶長6年からは加藤清正の肥後領であったのが、寛永9年に細川家に代っています。このような混乱も、豊後地区から刀工がいなくなった要因の一つです。

■別府湾の大地震
さらに、慶長元年に別府湾内で発生した大地震は、豊後地区全体に大被害をもたらしました。この時に発生した大津波は高田地区にも到達し、刀工たちの鍛冶場を全滅させたことが想像できます。
このように、文禄から慶長・元和にかけての約30年間は豊後鍛冶にとっては全くの不遇の時代であったことが想像でき、いわゆる空白の時代であったのです。

■藤原高田の時代
その後、寛永のころから豊後地区は全体に落ち着きを取り戻してきました。寛永9年より、高田鍛冶の中心であった旧高田村を含め、この一帯を肥後熊本藩の飛地(二万三千石)として細川家が治め、明治期まで続いています。
旧高田村は刀鍛冶にとって好条件の場所であったばかりでなく、室町期から続く刀工たちが残っていました。このころから、藤原高田は元禄・享保ごろまで大繁栄したのです。そこには当然、細川家に庇護がありました。
嘉永2年(1849)ごろの手記に鶴崎郡代(細川家領)に差し出された覚書が残されており、そこには寛永ごろからのことが細かく記されていて、そのことを証明しています。
細川家は、高田勝衡はじめ六家に苗字帯刀を許し、さらに大和守忠行には十人扶持、輝行に四人扶持を与えて士分として扱い、数々の面で庇護しています。

■藤原高田の刀工
次に、藤原高田の刀工たちについて触れてみましょう。
新刀期の代表的刀工と言えば、国広・虎徹・真改・助広・初代忠吉等々誰でも知っている「最上作」の刀工ですが、藤原高田には有名刀工はほとんどおりません。「日本刀工辞典」(藤代義雄著)では刀工の位列を最上作・上々作・上作・中上作・中作の五段階に分けていますが、藤原高田の中で最上位が四番目の中上作で、行長・行光・友行(初代)・統行・実行・本行(松葉)の六名のみであり、あとは五番目の中作が忠行・尚行・統景・国行・輝行・実行(二代)ら10名程度で、その他は番外です。
しかし、位列は低いながらも、良業物に行長、業物には友行・統行・国行がおり、藤原高田は「折れず、曲がらず、よく切れる」ことを物語っています。
話は少々逸れますが、日清・日露の両戦争において、豊後刀は武用刀として高く評価されました。昭和の太平洋戦争時には、軍刀の中身として豊後刀の需要が多くあったとのことです。われわれも時折、軍刀の中身に豊後刀が入っているのを見かけますが、まさにその証であります。
藤原高田の刀工群は、地方の鍛冶として肥前刀と同様、大いに繁栄した集団です。当時から武用刀としてよく切れることが人気となり、豊後地区はもちろん、九州の各藩から引き合いがあり、さらには肥後領内の鶴崎港から瀬戸内海沿岸の各藩に輸出されたものと考えられます。

■藤原高田の作風
藤原高田の作風を部分ごとに見てみましょう。
<姿>各時代に沿った体配ですが、相対に鎬が高く、鎬幅が広めで、棟も高く、平肉の付きすぎた傾向があります。さらに鎺元で大きく反り、先細りという特徴もあります。
<地鉄>小板目よく詰むものが多く、鎺の上部分に大肌が出ることがあります。鎬地は柾となります。また、元禄以前の作にはまま映りの立つものがあり、この点が肥前刀と異なる見所です。
<刃文>小沸出来の直刃(④⑥参照)が最も多く、湾れに尖り風の互の目のもの(③参照)、湾れに互の目を三つほど交え繰り返すもの(⑦参照)、小沸出来の互の目乱れで上総介兼重風のもの(⑧参照)などがあります。まま焼き出しのあるものもあります。そして、どの刃文も匂口が帯状となる(肥前刀に似た)ところがあり、大きな見所です。しかし、当時流行した濤欄刃や匂本位の華やかな丁子刃は見られません。
<帽子>小丸に返るものが多く、反りが深く、まま先が掃き掛け、返りの止めの部分がやや尖ります。
<中心>鑢目は勝手下がりが多く、中心尻の棟方は浅く、刃方の方が深い独特の形となり(⑤参照)、一見片削ぎ風に見える中心尻となります。

■無銘極めの藤原高田
室町期の平高田や高田極めの刀剣類は非常に多く見られますが、藤原高田極めのものは少ないです。なぜならば、新刀期の大磨上げ無銘はきわめて少なく、生ぶ無銘の刀剣類もあまり多くありません。
藤原高田に極める場合、一見肥前刀の脇物に見え、前述の藤原高田の特徴を兼ね備えた刀剣類の場合が多いです。

〈参考文献〉
藤代義雄『日本刀工辞典 新刀編』
山田正任『図説豊後刀』
中原信夫『室町期からの大分県の刀』

(刀剣界新聞-第61号 冥賀吉也)

藤原高田鍛冶に見るさまざまな刃文

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